ええと、まず。
今週はローリング・ストーンズのライヴに行きますよ。
いろんな曲が楽しみだけど、
「シンパシー・フォー・ザ・デビル」はいいね。
ホンキートンク・ウーマンの、リフは、だいたい最高に盛り上がり、
客を躍らせるけど、
シンパシー・フォー・ザ・デビルのサンバのリズム、楽しみにしてる人は多いと思う。
悪魔を憐れむ歌という邦題だけど、
「悪魔に共感する歌」でしょ。
宗教家は、神を信じる宗教家オンリーが好きと、書いたばかりで、
神を信じる宗教家以外の宗教家は、
自分の宮である
大切な、私の家には
絶対に入れたくない私ですが。
芸術家となると、デビルを扱ってる人たち、好き、好き。![]()

ファウストを書いたゲーテ、大好き!!
地獄篇書いたダンテ、興味ある!!
ドストエフスキーの罪と罰、おもしろい!!
水木しげるの悪魔くんも、ここにあるよ。
芸術とは、すべて批評だからなのだよね。。
わたしの友人の女性で、エロ小説を書いてる人がいて、
まあ、もともとエロい人ではあるのです。
本人は、世間から「清純な、気高い、美人」という扱いを受けています。
ふだんは外見の印象から「清純だ」と男性たちから、あがめられています。
吉永小百合のように・・です。
で・・彼女は芸術家として認められている人で
「わたしの小説は、芸術である」と言ってます。
そもそもエロは、スピリチュアルなもの。
支配やグロや残酷やスカトロとは違うと思うのだけど・・。
しかし、エロはヒーリングつまり「癒やし」に使われるため、
倒錯の治療に使われることがあるのは・・いたしかたないでしょう。
すべての人が、倒錯してはいないし、だから
すべての人が、倒錯をエロで治療する必要はない。
だから・・倒錯と無関係な人を倒錯の世界や、倒錯のエロの世界に
もっていくのは、私は大反対です。
子供や、弱い人々、清純な男性や、清純な女性を守りたいです。
倒錯エロは、必要ない人には、まったく必要ないと思う。
エロは魂を溶け合わせる神聖な行為のように拝察します。
誰とでもできることではないでしょう。
私は、今後、
「自分を神社と考えて、自分という宮を守ろう」と
提唱しようと思っています。
それは人と人との分離とは違うことです。
人間の尊厳を守る行為。
さらに・・・人間が一番他人を愛することができるのは、
実は、一人で祈る時かもしれないという気持ちがあるからです。
孤独な祈りの中で、人間は、他人を最大限に許すことができる。
そのためには、一人ひとり、ちゃんと宮の中にいたほうがいいと
思うんですよねーーー。
エロは本来、神聖な行い。
心底合一してもOKという確認をしてから、
魂を溶け合わせましょう。
ちなみに・・上述の倒錯とは、
人間をスピリットととらえるのではなく、肉としてとらえるという意味です。
20世紀までは、唯物論が跋扈していたから・・
人間をスピリットととらえるのではなく、肉としてとらえる方向性ができましたね。
原理的にいって、人間は、スピリットだからこそ、価値があります。
人間の価値は、他に説明しようがない。
芸術はインスピレーションの伝達でもあるけど、
もう一つの側面は、右脳的批評なんだよね。
つまり・・ものがたりとして描かれたものと、本人とは距離があるということ。
そういう意味で・・
「ロバート・ジョンソンは、悪魔に魂を売ってないんじゃないか」と
時々、思う。
ロバート・ジョンソンの悪魔話は「芸術」のほうじゃないかなと。
だけど、ジミー・ペイジは、本気にして、悪魔に魂売ったかな?と思う。
ギタリストとつきあう女性は、彼が悪魔と契約したことがあるかどうか、
つきあう前に、確認した方がいいと思います・・・。
本気で悪魔と契約するギタリスト、今でも、います。
何年か経ったあと、ギタリスト宅、扉をノックする、黒い姿。
ギタリストとつきあった女性のほうに請求書が来る可能性あり。
請求書には、「たましい、ひとつ」と明細があるかもしれません。
芸術を通じて、人々は空想の世界で、実際には手を汚さずに
悪を生きることもできます。
殺人本は・・娯楽本ふくめて山のようにありますが、
読む人は、殺人者の気持ちに思いをはせることはできて、殺さなくて済むわけです。
すごく残虐と言われる作品群もあります。人間を肉と見る見方をどこまで
おし進められるか、挑戦しているような。
そういう分野のものとして
Vシネマ・ギニーピッグや
映画ムカデ人間は・・・趣味として、見たくないけど^^
ギニーピッグシリーズに主演したことがある、
ゆずの北川悠仁は結構好きだけど・・・それでも見たくないのですが
(わたしが弱虫ということもある)
でも、やはり、芸術なのかな。
見てないから、わかりません。
批評より、悪徳に対する陶酔が主題になっている可能性もあると思う。
陶酔が主題だとすると、黒ミサみたいになっていて、
「神以外に対する宗教」に片足を突っ込んでいるのかも
しれません。スレスレなのかも・・・。
いや、それとも・・たいしたことないのかな。ただの芸術もしくは悪趣味なのかも。
(見たことないから、わかりません・・(爆))
世の中に適合しない、悪癖も、芸術という形で出してしまえば、
価値があるかもしれません。
ゲーテは大好きなんだけど、
ゲーテは「若きウエルテルの悩み」で自らの失恋を再構成した。
ウエルテルは死に、ゲーテは生き残った・・なんて言われるよね。
もちろんファウストは魂を売ったけど、ゲーテは売らなかった。
それが芸術だと思う。
現実世界と、アストラル世界で起こったことを再構成して乗り越えるわけ。
だから・・次元高めすぎる主役が活躍する小説は、イマイチである。
現実世界&アストラル世界の、その上のレベルで生きた人は、小説にしづらい。
聖フランチェスコを書いた小説を読んでみたのだけど。
・・ふつうの小説と違う。
一部、宗教書にしないと、ストーリーが成立しなくなってしまうのがわかる。
アストラル世界とその上の世界を同時に生きた人が書いた「詩」は
サイコーです。優れた詩人は、みな、そこにいます。
芸術家は、
再構成することで、死なないで済むようになる。
再構成することで、ホンモノの堕落を味あわなくて、すむようになる。
わたしは、あくまでも、宗教家に関しては、
神を信じる宗教家のみを愛する。
宗教は、無批判な受容だから。
ジョルジュ・バタイユは、どこかで、人間がスピリットであることを忘れ、
人間が肉だという感覚に陥ってしまったようにも見える。
それが、彼の倒錯で。
もしも、生まれ変わりというものがあるとすれば、
彼は生まれ変わって、またいろいろ学んでいるのでしょう。
もしも生まれ変わりというものがあるとすれば、
人間が、スピリットであること忘れると、転生の数が増えるので、
損だと思う・・。
ローリング・ストーンズの、キース・リチャーズは、人間は、
スピリットでしかないという感覚のなかで、生きてる人だと思う。
キースは、ウェールズ人の典型 。
エミリ・ブロンテ「嵐が丘」のヒースクリフ
シャーロット・ブロンテ「ジェーン・エア」のロチェスター
みんな、キャラがかぶってる。
現実的でタフでありながら、
同時に、スピリチュアルであり、美しいものを愛し、
女性を大切にする男性。
キース・リチャーズは、スピリチュアルな印象を与えている人物だと思う。
キースは悪魔教に入信したり、しないらしい。
彼は悪魔教に接近したことがある。
アニタ・パレンバーグは、そちらに興味があったと思う。
だけど、キースが崇拝してるのは、ロックンロールの神様なんだもん。
キースの指にドクロの指輪が輝いているのは有名で
あれを悪の象徴と見る人もいるけど
キースは、古代の叡智に敬意を表しているのだと・・私は思うのです。
だいたいキースは、あれで・・・クラシックな文化に精通している。
カリブの海賊シリーズで、ジョニデが活写した、千鳥足の海賊は
キースの一面の姿。
そもそも、ドクロほど、神聖なものは物質次元に、あまりないし、
頭蓋骨ほど役に立つものはない・・と私は思っています。
どうですか。頭蓋骨は、悪いものですか?
人間の体ということを考えた場合、
宮(みや)にあたるのは、頭蓋骨と心臓あたりというのは、
納得していただけるのではないかと思うのですが・・。
背骨も重要ですね。
キースが悪魔教に入信しないことが
ジミー・ペイジと違って、現役感バリバリであり続ける
秘訣かもしれない。
キースは、ウエールズの聖なる魂と契約しているみたい。
それは神でも悪魔でもなく・・
悪魔の相貌ぽい
神の僧房
悪魔の僧房ぽい、神の僧房とは、ドクロのことじゃないか。
悪魔の相貌ぽい、神の僧房というと・・ベートーヴェンにつながるイメージでもある。
実は、わたしは10代のころから
「キース・リチャーズって、なんでこんなに・・ベートーヴェンに似てるの?」と
思っていた。両方の音楽を聴き比べながら、思っていた。
ちなみに、ベートーヴェンの音楽は、あの時代としては、異常にシンコペーション多用だそうで。その意味で20世紀の黒人音楽に似ているそうである。
私はアフリカ系アメリカ人から、真顔で『ベートーヴェンは黒人』と力説されたことがある。
ベートーヴェンは、暗黒の世界を描きながら、神の歓喜と組み合わせて
コントラストにしてしまう。
ストーンズにも、そのようなところがある。
敢えて神と言わなくても、清らかな浄化作用を感じさせるところが。
何度も何十年も同じ・・歌謡曲?を聴かされているのに
カタルシスであり続けるのは、浄化作用があるからだ。
キース・リチャーズは、悪魔の相貌ぽい、神の僧房にいる。
芸術家だから、スレスレのところにいるのだ。
現在、アンチ・エイジングの星となって燦然と輝く
ローリング・ストーンズは、昔から言われるように・・
キース・リチャーズの宮(みや)の上に成り立っているバンドである。
お囃子(おはやし)は、スイングジャジー・チャーリー・ワッツが担当し、
ヒラヒラと舞う美しい白拍子、
あるいはアンドロギュヌスの道化師でもある巫女が、
ミック・ジャガーと名乗っていても。
芸術がすべて批評である以上、
芸術家は、アストラル界の全体を描写できることが望ましい。
しかし、全幅の受容を要求する宗教で、信じていいのは、
神だけだと思います。
わたしが宗教家と、芸術家に対して、まったく・・一見違って見える
基準を使用しているのは、以上のような理由です♪