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キリスト教共同体の成立と崩壊。(宗教社会学②)

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大田俊寛から引用してみます。
 
***キリスト教共同体の成立
 
***「キリストの身体の分有」
 
ヨーロッパの歴史において、イエス出現の後、
 
ローマ帝国の統治下、ユダヤ民族の宗教的伝統のなかから、
世界宗教となりうる形態の一神教が生まれた。
 
すなわち、キリスト教である。
 
ローマ帝国は当初キリスト教を弾圧したが、帝国の勢いに衰えがみられるようになると、キリスト教を国教化して、国内の社会的結束を強めるために利用しようとした。
 
これによってキリスト教は急速に成長したが、ローマ帝国の衰退に歯止めはかからず、395年に帝国は東西に分裂、476年には西ローマ帝国が滅亡する。
 
そして、ある意味でローマの「落とし子」ともいえるキリスト教が、その後の
ヨーロッパ社会において中心的位置を占めるようになったのである。
 
 それではキリスト教は、どのようにして社会の中心となったのだろうか。
それは、教会や修道院といった宗教的共同体を形成し、それを普及させることに
よってである。
 
そしてこれらの共同体は、新約聖書の福音書やパウロ書簡のなかで示された
「キリストの身体」という概念に基づいている。
 
 それではキリスト教は、どのようにして社会の中心になったのだろうか。
それは、教会や修道院といった宗教的共同体を形成し、それを普及させることに
よってである。そしてこれらの共同体は、新約聖書の福音書やパウロ書簡のなかで示された「キリストの身体」という概念に基づいている。
 
 それらの文書によれば、イエス・キリストは、神の子でありながら、人間の原罪を
贖う(あがなう)ため、十字架上で刑死を受けた。自らの死を悟ったキリストは、
磔刑直前の「最後の晩餐」において弟子たちに、
「これは、あなた方のために与える私の体である。私を思い起こすため、このように
行いなさい」と言ってパンを食べさせ、
 
「この杯は、あなた方のために流す私の血で立てられる新しい契約である」と言って
ブドウ酒を飲ませる。こうして弟子たちは、犠牲として捧げられた「キリストの身体」を食するのである。
 
以上のような聖書の一場面は、キリスト教の重要な儀礼である
「聖餐礼(ミサ)」を成立させる根拠となっている。
 
すなわち、キリスト教の信者たちは、聖餐礼においてパンとブドウ酒を分かち合って
共食することにより、「キリストの身体」を分有し、ともに体を同じくする=共同体を
結成することができる、と見なされるのである。
 
 キリスト教の儀礼においては、このようにしてキリストの死の事実が記念されるとともに、いったんは死を遂げた「キリストの身体」が、新たな共同体として再生することが示されている。
 
 大田俊寛式の言い方で言えば、
 
「キリストという虚構の人格」を中心として、生死を超えた人々のつながりが確保されるのである。中世のヨーロッパでは、キリスト教的な共同体である教会や修道院を中心に据えることによって、
 
社会的統合が保たれていた。より具体的に言えば、教会においては、教会簿をもとにして地域住民の誕生・結婚・死亡について管理され、教会法に基づく裁判が
行われた。
 
修道院では、家族や地域を離れた人々が参集し、「祈りと労働」の生活、すなわち、
日々の祈祷の他に、未開地を開墾しての農業や酪農、医療といった労働が
行われた。
 
その信仰のありかたは、近代のプロテスタンティズムにおける
聖書主義や敬虔主義のように個人的なものではなく、
 
強く社会的機能を帯びたものであった。

オウム真理教と、オウム神仙の会のファンの方へ。

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オウムファンの方の、内緒コメントは、お断りします。
オウムファンの方の内緒コメントがあった場合、即、削除いたします。
 
ですが、オウムファンの方から、他人にも見える形で、堂々と、
コメントをいただけたら、その場合は、丁重にもてなせたら嬉しいと思います^^
 
オウムファン以外の方の、内緒コメントは、OKです。
 
オウム真理教のファンの方
 
「オウム神仙の会は、クンダリニーヨガの団体として凄かった」
言っていらっしゃる方へ。
 
まず。オウムの話は、堂々と公の場ですることにしましょう。
 
内緒コメントはお断りします。
 
 
私がオウムと関係ない記事で大田俊寛の名を挙げたことで、
気をもませてしまったようですが、
わたしのブログに、内緒コメントを、たくさん書かないでください。
 
大田俊寛がオウム真理教と麻原彰晃への批判を書いているので、
それで私がオウムを悪く思うようになるのではと、気にしていらっしゃるのでしょうか。
 
 
 
私は・・「麻原彰晃と、オウム」を良いものだと思ったことはありませんでした。
大田が何を言おうと、もともと私はオウムを善いものだと評価したことがありません。
 
私は、オウム真理教やオウム神仙の会の存在を初めて知る前、
10代のころから、超越瞑想や、クンダリニーヨガには興味があり
勉強もしましたし、実践もしていました。
 
小学生のころからビートルズのファンであったことも関係しているかもしれません。
 
そして。
 
道端に貼ってあった、オウムの小さなチラシの中で、
麻原が坐法のまま飛んでいるところを一目見たとき、
「これは二流以下の団体だな」と思ってしまいました。
 
その時までの、経験と知識からいって、あまり程度の良くない団体だと
直観したのです。
 
オウム真理教が渋谷の街頭で派手な選挙戦をやっているときは
「三流以下だな」と思い
 
オウムの無差別殺人事件の時は
世の中のほとんどの人と同じように
私もオウムは最低だなと思いました・・。
 
今にいたるまで、オウムを善いと思ったことが一度もありません。
 
ですから・・・宗教学者の大田俊寛を読んだから意見が特に変わるということは
ありませんので、心配しないでください。
 
 
オウム真理教もしくはオウム神仙の会を高く評価する貴方様には、
貴方様のきちんとした理由があるのでしょう。
 
私たちは皆、異なる経験と観念の世界に生きていますので、
 
人それぞれ、最高を目指して、十分な理由があって考えているので、
オウムを気に入った方々にとって、オウムに入った十分な理由があったことは、
私にも想像できます。
 
***
 
宗教学者と言われていた中沢新一は、「宗教は狂気が大切」という意見で、
オウム真理教を擁護したことで有名ですし、
大量殺人すら容認するような発言をしている??とも言われますが、
 
わたしは中沢のように「狂気が大切」とは思いませんし、
 
オウム真理教のように「神智学大要」を経典にしようなどとは思いませんし、
 
麻原が言ったように「チャクラは下半身からしか開けない」のはウソであることも
「下半身からチャクラが開いていくべき」という主張が
クンダリニーヨガの常識として、ありえない危険なことだと知っていますし、
 
もともと・・・オウムには、私が惹かれる要素がほとんどないのです。
 
教組の波動を見ただけで、興味が失せると申しましょうか。
 
*****
 
最近、宗教の歴史をまとめている時に、大田俊寛から引いた理由について
書きます。
 
最近、複数の宗教学者の本を読んでいたのですが、
その中で、大田俊寛の「割り切りぶり」が一番凄かったのです。
 
つまり、彼は、個々の宗教の価値については、まったく述べずに、
書ける学者です。
 
そのくらいの割り切りがないと、宗教の歴史というのは、語りにくいですね。
 
宗教学者、つまり理性で語るべき立場の人が
宗教家、つまり自分も信じている人と同じ立場で書いたら、
うるさくてしょうがありません。
 
神学者、つまり神を信じる人が書いたものも、歴史横断には不向きです。
 
個々の宗教の価値ではなく、構造の違いを冷静に見ることと
全体をつかむためには、「割り切っている」人のものが好都合だと思いました。
 
それで、宗教学的分析記事の最初に大田俊寛をもってきたので、
 
オウムを批判するために理論武装している?のではないかとか、
余計な心配を、もししているとしたら、やめてください。
 
私は、もともとオウム真理教に価値を感じられない人間なので、
大田が何を言おうと、あまり影響はないのです。
 
*****
 
あなたに言われて、麻原彰晃著の本も買いました。
中古で2000円で買ったのですが、
今は10000円以上になっているようです。
 
その本を観たおかげで、「オウムのテクスト」に従って
批評、できるようになりましたので、その点、心から感謝しています。
わたしの活動範囲が1つ増えたことになりますので。
 
オウムに入る人の気持ちも理解しようと、努力はしています・・・。
 
本を観たおかげで、オウムのクンダリニーヨガの知識の不十分さも理解できましたし、
オウムの根本経典が神智学会の、神智学大要であることも理解できました。
 
オウムはインドヨガの伝統から学んだのではなく、
 
フリーメイソン+悪魔主義+ニーチェの超人思想→神智学会→オウムというような
流れだったことも、理解できました。
とても近代的な性質のものだったのですね。そうだろうと予感していましたが、
証拠を確かめられて、いろいろ歴史を勉強できて、よかったです。
 
 
あなたがオウムを好きで
オウムに親しいお友達がいて
オウムと過ごした楽しい日々があって、
オウムとの良い思い出がたくさんあって
オウムへの評価が高いのは、それなりに
理由があることだとは思います。
 
「僕とオウムの、素晴らしき日々」あるいは
「僕とオウム信者との、楽しい友情」というような文章を、
あなたが書いたら、読んでみたいです。
きっと何か、共感できるものを発見できると思います。
 
ひょっとして、かなり共感できる可能性が高いと思います。
 
 
でも、人はそれぞれに違います。
 
経験してきたものも違いますし、養ってきた観念も違います。
 
私を、あなたと同じ価値観に、しようとしないでください。
 
****
 
読んでいらっしゃる皆さま、すべての方々からの
 
この記事へのコメントは歓迎ですし、
 
一般の方からの内緒コメントはOKですが、
 
オウムファンの方の
内緒コメントは即削除いたしますので、よろしくお願いいたします。
 
(^^)/
 
 
 
 
 

ホテル・カリフォルニアは一曲全部、悪魔教の儀式と読める。

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最近悪魔教の話を書いてしまったので、
話の流れから、次は、
イーグルスの、ホテル・カリフォルニアの話をしたいと思います。
 
このアルバムの裏ジャケットに、20世紀の悪魔教二大教組のうちの
ひとりの、実写・写真が使われていることを知っていますか。
 
この記事では、ホテル・カリフォルニアと、悪魔教の関係について
歌詞を分析してみたいと思います。
 
 
 
そして、なんと。
 
身近なブログ友だちで、このブログによく来て下さる
ajaさんは、
 
イーグルスのバックステージパスを使って
イーグルスのメンバーに会いに行き、
 
流ちょうな英語で(多分)
 
ドン・ヘンリーに直接、
「1969年から、スピリットは切らしております」の意味を聞いたというから、
 
すごいな~、ロックファンとして、羨ましいな・・。と思うのです。
 
ajaさんに、その時の話を聞いてみたいと、思っています。
 
3月の終わりまでに、イーグルスと悪魔教の話をつなげようと、
2月から、待っていたのでした。
 
やっとつながりましたね。
 
ajaさんは、ドン・ヘンリーに、なんと聞いたのかな?
 
わたしが「1969年以降はスピリットは切らしております」という歌詞に
感じている意味は下のほうに書いてあります。
 
 
 
***
 
ホテル・カリフォルニアは歌詞でありますし、名曲でありますから、何重もの解釈が可能でありますが、わたしが話したいのは、
 
「ホテル・カリフォルニアは、一曲まるまる、悪魔教の儀式の歌と受け取れますが、
そのことがうまく隠されている。」ということです。
 
わたしにはこの歌詞は、一曲まるまる、パーフェクトに矛盾なく
悪魔教の儀式のことを歌っていると思えるのですが
もちろん「それは偏見だ」という意見もありだと思います。
 
芸術作品としての歌詞である以上、さまざまな意味にとれるように
技巧をこらしてあると思いますが、
 
どっちみち、「悪魔教の会合についての歌」と100%とることも可能であるように
仕上がっている歌です。
 
うまく解説できるかわかりませんが、これから解説してみたいと思います。
 
以下、ホテル・カリフォルニアで悪魔的に聞こえるところをざっと挙げていくと・・
一曲まるまる、悪魔教の歌と言っていいです。
 
儀式の建物に入る、もしくは入会するところから始まって
 
悪魔教の乱交の儀式、生贄に複数で無情にナイフを入れる儀式、
さらに 生贄の肉を参加者全員が食べる決まり、
自殺は許されるが、脱退は許されないことが、
すべて、一曲の中に含まれています。
 
そう考えても、文学的に問題なく、詳細な意味の裏付けが可能なのです。
 
以下、とりあえず、歌詞を少しずつ訳しながら悪魔教と聞こえる理由を説明していきます。
原詩がないとわかりにくいかな?
 
(もしもわかりにくかったら、後で載せるかもしれませんが、とりあえず、
ホテル・カリフォルニアの歌詞を思い出しながら読んでください。)
 
最初のほうの悪魔教話が「こじつけ」だと思われた方は、
「ワイン」のくだりのところまで、先に飛んでください。
そこからおしまいまで検討して、
それから最初に戻ると、すべて悪魔教の歌と見なして差支えない
ということがわかるのではないかと思います。
 
 
暗い砂漠のハイウエイ
クールな(冷たい)風が髪に
風は、スピリチュアルな意味につかわれる。
その風が冷たいという。
悪魔の近づくとき、冷たい風が吹くのは、まことにふさわしいことと、
言わねばなりません。
 
コリタスの温かい匂いが
コリタス隠語でマリファナのこと。
空気を抜けてrising upしてくる
risingは、悪魔教ではよく使う言葉。他の動名詞でも意味が通るはずなのに
risingを使っています。
 
チラチラと、光が見える。
頭が重く、視力がかすんできた
(ここで)一晩過ごさなくてはならない
実はlightという言葉も、悪魔教でよく使われる言葉
なぜ、「過ごさなくてはならない」と義務的なのでしょうか。
 
彼女が入口に立っている
彼女とは、誰?
 
礼拝ミサの鐘を聴いて
実は・・後述するように、イーグルスと親交があり
ホテル・カリフォルニアのジャケットにも載っているアントン・ラヴェイは
悪魔礼拝をおこなっていました。イーグルスも教会に加入していたと言われます。
 
自分自身のことを考えた。
これは天国でもありえるし、地獄でもありえる」これは、モロな感じですね。
ちなみに・・ホンモノの悪魔教は、空疎な、天国ぽい外見をもっています。
 
悪魔教に入会すると、フリーメイソンらの援助により、この世の成功が与えられるので、そういう意味でも、天国であるのです。
 
すると彼女はロウソクを灯し、」ロウソクは当然、宗教や秘教の重要な小道具ですね。
そもそも20世紀の人が、こんな時、ロウソクをともすでしょうか。
ロウソクと出てくるだけで、宗教の暗示になります。
魔術にも、ロウソクはよく使われます。
 
彼女は通路/あるいは方法(the way)を示した
そもそも・・彼女って誰?
ホテルの人だとしたら、役職で呼べばいいはず。
the wayは、通路でもありますが、【やり方/仕方/方法】でもありますね。
 
廊下を下っていくと声がしたのだ。」
廊下corridorのチョット古めかしい響きが、
いにしえより存在している悪魔にふさわしい、雰囲気を出しています。
 
 「(こんな風に)彼らは言っているように聞いたと僕は思った
I thought I heard them say.
 
thoughtは「そう思った」であり、ここで一段階、聞いたことが曖昧になります。
「聞いたと思った」とはなんでしょう。
この世の音でないものを聞いた、幻聴かもしれませんね。
 
 つまり、その後のサビの「聞こえたもの」は現実ではないかもしれません。
霊力により、幻なのに、体験したのかもしれません。
悪霊がきかせた幻聴なのかもしれません。
 
ようこそ、ホテルカリフォルニアへ
なんて素敵なところ、なんて素敵なところ
なんて素敵な顔
 
同じ言葉を繰り返すことで、幻聴感を出していると思います。
 
plenty of room at the Hotel California
 
この「プレンティ」が曲者だと思います。
たっぷり、お部屋はございます。
必要なニーズより、常にほんのちょっぴり多くroomがあるイメージ。
つまり・・魂がいくつあっても、十分に間に合うだけの
空間/容器/部屋(room)があるということ。
ただ「多い」のなら、manyと言えばいいはず。
 
pleytyだと、「必要より、ちょっと多め」という
ニュアンスに聞こえるわけですね。曲者の表現。限界なくある感じ。
 
必要になると、roomが増える感じ。
ホテルの部屋のことではない、何かを暗喩する感じ。
だってホテルの部屋数だったら、限界があるはずですから。
 
この曲が悪魔教についての歌だとすると、
ホテル・カリフォルニアとは、悪魔教の宴会のことでもありますが、
悪魔教そのものの比喩であるとも考えられます。
 
だから、ホテルの部屋はいつも「必要なだけよりちょっぴり多め」にあるわけです。
 
 
その次は訳が造語とダジャレなので訳が難しいですが
彼女のmindはティファニーに、ねじくれ
twistedは、「ねじれた」ですが「よこしま」という意味もあり。
メルセデス・ベンドしちゃう」ダジャレですが、メルセデス・ベンツのほうに
ねじくれているようです。
 
悪魔は物欲の象徴でもあります。
 
次は、いろんな意見があると思いますが
ここまで悪魔的な羅列の後に
She got a lot of pretty, pretty boys
she call friends.」
 
と来たら、彼女が美しい美しい、たくさんのボーイズと、
次々に性的関係を結び
彼らをフレンズと呼んでいる・・と取ってもいいと思います。
悪魔教儀式に、乱交はつきものですからね。
 
ひとつのイメージとしては、スタンリー・キューブリックの映画
アイズ・ワイド・シャットの世界でしょうか。
 
彼女が男性の友だちを沢山得たのであったら、
She got friends.とかThey were friends.とか言えばいいはずです。
callになっているところが曲者。
 
フレンズと呼んでいるだけなのです。
普通に見たら、常識的なフレンズとは違うのではないでしょうか。
 
そう考えると次の四行も怪しくなっちゃいます。
「彼らが中庭でどんなダンスを踊っているか」
「Sweet summer sweat」
Sが三連になって、からみつくスウェット感が強調されています。
「ある人々は思い出すために踊り」
「別の人々は忘れるために踊る」
 
中庭という意味のcourtyardは、大邸宅の中庭、城の中庭を思わせる
言葉です。古めかしい格式が、いにしえの存在である
悪魔にピッタリの雰囲気です。
そして、中庭は、部外者からは見られない空間ということですね。
 
Sweet summer sweatに込めたかった雰囲気は、何でしょうか?
 
悪魔教の乱交は、できるだけ野外ぽいところでやると
実際に悪魔教の儀式に参加した日本の占い師
ルネ・ヴァンダール・ワタナベの文章で、読んだことがあります。
 
日本では、占い師は悪魔と関係ないのですが、
西洋では伝統的に、キリスト教以外の霊能は悪魔とされてきたので、
占い師が悪魔教徒を兼ねていることも多いのです。
 
タロットの大先生扱いされているアレスター・クロウリーなども代表だし、
クロウリーの団体にいたダイアン・フォーチュンもそうでしょうね。
 
真面目で堅実な日本の占い師、ワタナベは、目の前で繰り広げられる
光景に、信じられないと唖然としながらも、その儀式のことを文章で書いて発表しました。
わたしはどこで読んだのだろう、読んだことは覚えています。
魔術の本じゃないのです。もっとふつうの本で読んだと覚えています。
美容院で読んだ雑誌だったかな。
 
ワタナベによると
全裸の女性が横になって祭壇となり、まず最初に女性の三か所に参加者全員で
口づけして、それからメチャクチャに乱交・・
と、ポルノ顔負けの随分とエッチなことが、見聞録として書いてありました。
あれを読んだのは、いつだっただろう。
 
都会の中では、邸宅の中庭がぴったりなのではないでしょうか。
 
この四行のダンスシーンは、普通に【汗をかきながら、ネットリしたリズムで踊っている】と、とってもいいと思うのですが(私たちのほとんどは、そう思っていたと思います)、
 
もし本当にこの曲が悪魔教を想定して書かれたとすれば、
このダンスは、性交/乱交と取ったほうが、意味はとおりますね。
 
彼女が美しい、美しいボーイズを沢山ゲットし、ただ友だちと呼んでいるという前置きが、乱交っぽさを強めていると思います。
 
ルネ・ヴァンダール・ワタナベが書いたような
全裸で祭壇になっている女性が、
美しい、美しい、boysをたくさんゲットした彼女なのではないでしょうか。
 
ひょっとして、それは、最初に、灯りをつけて道を示した女性と
同一人物?かもしれません。
 
この四行だけで普通にとれば、そこまで考えるのはエグいのですが、
この曲は、意味がよく隠された悪魔教の歌だと、私は思っているので
だとすると、そこまで考えたほうが、意味が通るのです。
 
さて。次がキモですね。
 
「そして私は給仕長(Captain)を呼んだ」
「私に、私のワインを運んでくれと」
wineでいいはずなのに、my wineになっています。
なぜ、wineではなく、my wineになっているか。
自分の特別な割り当て分を要求しているということですよね。
ただのワインではないのです。
 
このwineは、イエス・キリストのミサで供される
ミサの赤ワインのことだと思います。
だからこそ、割り当てがあるワインなのです。
 
キリストの血として信者たちが飲み、キリスト教徒としての証しを立て、
キリスト教徒の市民であることを証してきた、飲み物。
飲むことによって、罪が贖われ、罪が消し去られると信じられている飲み物。
 
イエス・キリストの血によって、罪を消すワインのことでしょう。
 
しかし給仕長は
「彼は言った、私どもでは、1969年から、そのスピリットはおいておりません。」
 
悪魔教解釈のホテル・カリフォルニアでは
 
そのスピリットとは、その精神、キリスト教精神のことと思われます。
ワインがないならワインがないと言えばいいのに、
そのスピリットと言わせて、別の意味を含めるところがミソ。
 
さらに、ワインは醸造酒であり、蒸留酒ではないわけですよ!!!!!
スピリットというのは、蒸留酒のことなのに、
わざと間違えて、本当に言いたいことを伝えているわけです。
 
英語では、本来は
ワインみたいな醸造酒は、alcoholであって、spiritではないわけですね。
だけど、ここをspiritにしないと、この歌詞のキモが完成しないわけですね。
 
 
なぜ、1969年なのか。
イーグルスが加入していた悪魔崇拝団体がアントン・ラヴェイの教会に属していたとNEWS WEEK誌に書かれていたそうですが、
 
アントン・ラヴェイの教会で、悪魔教の聖書が出版されたのが
1969年であり、
様々な意味で、キリスト教会よりも悪魔教会がロスアンゼルスで主流/優勢に
なった年だからです。
 
1969年にL.A.でキリスト教会に対し悪魔教会が勝利したというのは、アメリカのサブカルに詳しい人なら、なんとなくピンとくるはずです。
 
1969年の少し前、L.A.を本拠地にしていた
ドアーズのジム・モリソン
黒魔術に凝っていた女性と、悪魔儀式の結婚式をあげました。
お互いの指をナイフで切って、お互いの血を杯にいれて飲んだそうです。
 
イギリスにも悪魔崇拝の黒ミサをロックンロールのライヴ中にやることを売り物にしていたコーヴェンというバンドもあったそうです。
 
そもそも、ローリング・ストーンズは、この年あたりに、
シンパシー・フォー・ザ・デビルを発表しましたよね。
悪魔を憐れむ歌というよりは悪魔に共感する歌。
ミック・ジャガーは身体に悪魔をペイントしたり、していたそうですね。
 
ストーンズはこの後しばらく・・山羊の頭のスープくらいまで、
黒魔術のイメージを使いますね。
山羊というのは、欧米ではサタンとかデビルの化身扱いされていて、
悪魔教のシンボルなどに使われています。
 
その前にサタニック・マジェスティーズというアルバムもあったっけ。
 
1969年は、L.A.にいて、悪魔教の近くにいた人なら、特別な年だったはずです。
ハッキリとした変わり目だったはずです。
 
それと・・ある種の数秘術では、
6と9という数字は、どちらかというと、サタンぽくも、とれる数字なのですね。
1や3や7に神様イメージがついてまわるのとは、対照的です。
 
 
そして、まだ、それらの声たちが、遠くから呼び
はたして、その声は、この世から聞こえてくるのでしょうか。
 
あなたの眼を真夜中に覚まさせる、彼らの言う事を聞かせるために
 
真夜中にあなたを起こす声って・・普通に考えたら、変すぎですよね。
 
ホテル・カリフォルニアにようこそ。
なんて美しいところだ
(なんて美しいところだ)
なんて美しい顔だ
placeとfaceが対等な扱い。
その顔は、純粋な人間の顔でしょうか。
 
彼らは、ホテル・カリフォルニアに住みついているのさ
ええと・・悪霊か、幽霊でしょうか?
 
なんてステキな驚き
(なんてステキなオドロキ)
アリバイをもってこい。
 
アリバイとは、現場不在証明。
罪なき場所にきているとしたら、アリバイは必要でしょうか。
 
天井の鏡たち(Mirrors)」
 
鏡は、古来から宗教と秘教の小道具ですね
グノーシスでは、思想の中心に鏡が多用されています。
ちなみに・・グノーシスと悪魔教を結びつけようとする人が
多かった20世紀ですが、
どうも、グノーシスが悪魔教であるというのは、少し違うようです。
 
氷の上には、ピンクのシャンペン」ピンクのシャンペンとは、
いかにも、悪魔の街、L.A.ハリウッドにふさわしいではありませんか。
 
彼女は言った
『私たちは皆、ここではただの囚人なの。
私たち自身の、たくらみに属する(囚人)」
 
囚人と呼べるくらい、立場が縛られていて、外部に出られないということですよね。
立場が縛られている、悪魔教にふさわしいのです。
しかも、もともとは、自分たちの計画/仕掛け(device)で囚人になったという。
 
次も問題ですよ。乱交は済んで、いよいよ生贄(いけにえ)のお時間です。
 
master’s chambersのなかで
 
このmaster’s chamberは、生贄の儀式に使われる装置のことと思われます。
聞いた話では、悪魔教が使う用語であるとか。
 
彼らは祝宴/祝祭(feast)のために集まった
 
このfeastは、宗教的な祝祭や祝日のことでもあります。
宗教的意味が薄い宴会バンケットbanquetという言葉とは違うわけですね。
 
feastという言葉だけで、祝祭/祝日の意味が出てきます。
 
英語も、音そのものに意味があるのですが、「おびえ」を表す
fearなどに近い音ですね。
 
語源的には・・わかりませんが、もともと西洋では、祝祭のとき
生贄をほふる習慣があったと思います。
 
feastという言葉の響きに「おびえた生贄をほふる」と言う意味・・。
ネイティヴは感じないのかな?
英語がネイティヴではない私には、わかりません・・・。
 
次はモロの場面
彼らは、steelyな(心が動かない無情な)(複数の)ナイフで、それを突き刺す
 
steelyは、【鋼鉄のような】ですが
 
steelyだけで【人の心が動じない、無情な】という意味があり、
こちらの意味を狙っていると思います。
無情に突き刺さないと、悪魔教の儀式にはならないでしょうね。
 
 
それにしても・・悪魔崇拝団体に入っていたとNEWS WEEKにも書かれている
イーグルス。
彼らの黒ミサで、生贄になったものはなんだったのか、考えるとチョット怖いです。
 
黒ミサの生贄の最高峰は、人間の赤ん坊。
(わたしはこのあたりは、小学生の時、少年マガジンで勉強しました(笑))
アメリカでは、年間、数千人?それ以上?かなりの人間の赤ん坊が
いなくなっていると伝えられています。
 
イーグルスの団体は、そんな目立つことはやらなかったかもしれませんが・・。
なんらかの生贄を行っていたのは、間違いなさそうです。
 
次の歌詞。
「(情な複数のナイフで彼らは突き刺すが
しかし彼らは、あの獣(the beast)を殺すことだけはできない
 
あの獣というのは、悪魔のことです。
 
the beastが悪魔を指すというのは、常識レベルですね。
 
ヨハネの黙示録で、悪魔のことをthe beastと呼んでいますから。
666はbeastの数字とも書いてある文書ですよね。
 
theがついているのもミソ。
 
「あの獣」であって「他と交換がきく獣の1つ」ではないわけです。
 
アノ獣でしかない。悪魔です。
 
 
次に行きます。最後のところです。
 
「僕が覚えている最後のこと」
「ドアに向かって走ったのさ」
「前にいた場所に還る通路を見つけなきゃならない」
「リラックス!、ナイト・マン(night man)は言った」
 
Relax!というのは、全アメリカ男の口癖で、モットーで、美学みたいなものですね。
アメリカ男性は、ことさら、リラックスを装います。
それが一番の美学で、アメリカ式美徳でもあるから。
 
日本で、緊張が美徳の象徴であるのと、対照的ですね。
 
ナイトマンって何??多分、黒ミサから脱走しないように、見張っている男のことです。
 
 
ここから後も、けっこう怖ろしいですよ。
 
「(ナイト・マンは言った)我々は、レシーヴ(receive)するようにプログラムされている」
 
プログラムされている・・方向づけられているとは、まるで機械か何かであるように
方向づけられているのでしょうか。
 
レシーヴとは、なんなのでしょう。
他動詞ではなく、自動詞と見ることができるので
キリスト教用語の「聖餐(せいさん)を受ける」でいいのかなと思います。
 
つまり「ナイト・マンは言った、我々は、聖餐を受けるように定められている」です。
 
 
つまり・・黒ミサで、まず乱交があり、
生贄にみんなで無情なナイフを入れた後、
生贄を食べなくてはいけないわけ。
 
正式な黒ミサでは、人間を生贄にして、肉を食べると言われます。
代表的なものは、人間の赤ん坊です。
 
それがイヤで、ドアに走っていったら、ナイトマンに引き戻されたわけです。
「イケニエを食べるのが決まりです」と。
 
完全な共犯関係のためには、それは超えなくてはならないもの。
 
キリスト教の聖餐においても、聖餐にあずかることで
共同体のメンバーと認められるそうですが、
 
悪魔教の聖餐も同じなのですね。
 
イーグルスが参加した黒ミサでは、どの程度の儀式が行われたか知りませんが、
アメリカで年間数千人以上、いなくなる赤ん坊含む小さな子供たちは、
生贄になっているという説があります。
 
 
その後がまた、恐ろしい歌詞です。
 
あなたはいつでもチェックアウトできますが、
永遠に、ここを去ることはできません。」
 
これは普通にちょっと見ると矛盾してると思うでしょう?
しかし、チェックアウトの隠語がわかれば、簡単に謎が解けます。
 
この歌の最後の行まで来て、ホテル・カリフォルニアそのものが
悪魔教を指していることは確定的?だと思います。
 
永遠に去ることができないホテル・・・
悪魔教の暗喩がホテルであるからこそ、そんな変なホテルということになります。
 
さらに、チェックアウトとは、隠語で、自殺のこと。
 
いつでも自殺していいが、悪魔教を脱退することはできない」という意味なのです。
 
きゃ~~、なんておそろしい!!!
 
イーグルスは、悪魔と取り引きしてヒットを飛ばしたとも言われています。
アメリカのアルバム売上歴代一位は、イーグルスのベスト盤なんですよね。
マイケル・ジャクソンのスリラーに勝っているそうです・・。
 
リンダ・ロンシュタットのバックバンドから這い上がり
悪魔教にまで入って、こんなに苦労して、大ヒットを飛ばしたんでしょうか、
イーグルス・・。
 
デスペラードの悲しい運命だったのでしょうか・・・。
 
 
***アントン・ラヴェイについて。
 
ホテル・カリフォルニアの裏ジャケットに写っているアントン・ラヴェイについて書きます。
 
 
ホテル・カリフォルニアが悪魔教と関係あると言われているのは、
アントン・ラヴェイと非常に関係あります。
ホテル・カリフォルニアの裏ジャケットに映っている剃髪した人物は、
アントン・ラヴェイ本人。
 
このことが、「ホテル・カリフォルニア」の謎を解く鍵の一つだと思います。
 
アントン・ラヴェイは、20世紀の悪魔教の二大教組のうちの一人です。
 
二大教組の一人目は、レッドツェッペリンのジミー・ペイジがマニアックに愛していた
アレスター・クロウリー。
 
 
アレスター・クロウリーは、この前の記事で書いたオウムに影響を与えた
神智学会の出身です。神智学会を飛び出して、ゴールデン・ドーンという、
悪魔教を堂々と標榜する団体をつくりました。
 
堂々と悪魔教を標榜していなくても、
神智学会のブラヴァツキー、パウエル、アリス・ベイリー、ベンジャミン・クレームなどはサタニストと見なされているので
堂々としているかどうかの差なのですが・・・。
 
「神秘のカパラ」などを書いたダイアン・フォーチュンも、ゴールデン・ドーンの出身です。
 
アントン・ラヴェイは、昭和7年生まれ。太陽族世代ですね。
反抗的な世代。もともとは、職業魔術師です。
高校生のときにサーカス団に入り、猛獣の調教師になりました。
18歳にはカーニバル業界に入って、読心術を学びました。
蒸気オルガン弾き、占い師、殺人現場専門の警察カメラマンなど経ながら、
20世紀の悪魔崇拝の大家になっていきました。
 
アントン・ラヴェイは幽霊を研究したとき、「幽霊のニセモノ」に出会ったため、
霊現象はあまり信じていなかったと言われています。
唯物論者に近いところがあったのかもしれません。
それで悪魔を恐れなかったのかもしれません。
 
悪魔教の教会をつくる前、慈善事業に熱中したこともあったと言われています。
 
彼は、エンターテイナーとして、ゴースト・バスターや、悪魔ばらいを
行いました。
 
どうも・・人をだますのが好きなエンターテイナーというところがあったようですが、
それでも、神智学会出身の悪魔教組アレスター・クロウリーに共感を示し、
クロウリーにならって儀式を行ったと言われています。
 
ロスアンゼルスを本拠地にし
1966年に、剃髪し、悪魔教に出家??この年をサタン元年としました。
「サタン教会」を創立し、「黒い法王」を名乗り、思想の布教を始めました。
 
1967年には、悪魔崇拝風の結婚式を行い、
愛娘には悪魔崇拝式の洗礼式をして公開。
 
多くの芸能人が面白がって彼の教会に入信したそうですが、
 
アントン・ラヴェイは聖飢魔Ⅱのようなエンターテイメントとしての
悪魔教の外観も持ちつつ、
ホンモノぽい悪魔教の儀式も行いました。
 
現実にハリウッドの有名女優の肉体が交通事故で真っ二つになった時、
自分の黒魔術の効果だと、うそぶいたアントン・ラヴェイですが、
 
こんなホンモノの悪魔みたいな言いぐさは、
聖飢魔Ⅱの閣下は、絶対にやりませんよね。
閣下は、人がよさそうです。
 
アメリカだからあり得るのだと思います。
 
マスコミの寵児でもありました。
 
エンターテイメントの表向きを持ちつつ、
一方で、生贄の儀式など行いました。
 
彼の教会に入信したら、退会は許されないとも言われています。
イーグルスの歌詞、そのままだったわけです。

オウムのヨガは、神智学会の影響下にあり、クンダリニーヨガの基本を完全に無視し、インドの正統だったことはない。(80年代の日本のクンダリニーヨガ(1))

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ajaさんからメッセージをいただきました。
ajaさんの御友達は、オウムのヨガは、インドから来たものだと考えている
ということでしたが、
 
私が最近調べた、オウム真理教と、神智学会の書物の関係について
書きたいと思います。
 
この記事の後半部分に、「オウム真理教は。最初から、レベルが低かった」という
主張が書いてあります。オウムの「生死を超えて」という本を読んで思ったことです。
 
 
****オウムに影響を与えた神智学会について語ります。
 
 
神智学会とは、フリーメーソンが始めた宗教運動団体で、
フリーメーソンは、悪魔教と関係が深いと言われている団体です。
 
国際銀行家までつながる、この世の影の支配者だった団体ですね。
(過去形にします。)
 
オウムのヨガは、インドヨガに直接学んだものとは思えません。
オウムのヨガは、神智学会の直系であると思います。
 
それは、オウムの本と「神智学大要」を比較することでわかります。
 
世界観は、神智学大要そのままです。
 
 
易坊さんから、オウムは、ダンテス・ダイジの「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」
ヨガを始めたと教わったので、その本についても調べてみました。
 
なるほど。ダンテス・ダイジがそもそも、神智学会から
学んでいるようですね。専門用語が、神智学会そのままです。
 
ダンテス・ダイジは1950年生まれ。
そちらの世界観としては解脱したと言われていますが、
1987年(だったと思います)くらいに自死なさったそうです。
 
松本智津夫、ダンテス・ダイジ経由の神智学会だったのでしょうか。
 
  
*****
 
神智学会の創始者のブラヴァツキー夫人は、
神智学会の目的は、神を愛することではなく、
キリスト教を撲滅することだと、ハッキリ言っています。
 
神智学会からは、ルドルフ・シュタイナーという、
霊能者でもあった神秘学の大スターが出ていまして、
わたしはシュタイナーの価値は大いに認めています。
シュタイナーは、誠実な神秘家だったと思いますが、
神智学会のウソが気に入らなかったためか、途中で神智学会を脱退し、
人智学会をつくっています。
 
しかし、全体として、神智学会は、ハッキリと、サタニストを輩出する団体と
言っていいと思います。
 
初期のメンバーであるレッドビーター(リードビーター)については、
フリーメーソンのメンバーだったそうですが、
ハッキリとした悪魔主義者である・・という実感は、私にはありません。
レッドビーターの本は、比較的、読むにたえるところがあります。
レッドビーターは、単に、キリスト教に反対していただけかもしれないと思います。
悪魔主義まではいかないのではないかと・・。しかし、よくわかりません。
 
 
その後、ホンモノの悪魔教を輩出し、
さらに最近の
アリス・ベイリーや、ベンジャミン・○レームにいたるまで、
サタニストだと思います。
 
*****
 
実は、幸運なことに、オウム真理教自身が出版した書物と、
パウエル著「神智学大要」を比較する機会を得たので、
この二つのつながりは、私が直接調べたことです。
 
オウム真理教の書物や、神智学大要は、
ブログをやっていなかったら、調べなかったかもしれません。
ブログ友達に感謝です。
 
 
*****
 
フリーメーソンが創り、のちに正式な?悪魔教も輩出した神智学会ですが。
 
実は、この神智学会が、西洋と、日本に、ヨガを紹介したという流れがあります。

ジョルジュ・バタイユが学ぼうとしたヨガも、このあたりらしいです。

さらに神智学会において、パウエルという人物が、
「神智学大要」という本を書いていますが、

オウムの根本経典は、この神智学大要です。

わたしは・・最近、機会に恵まれて、オウムの本を手に入れましたし、神智学大要も読んだので、そのあたりは把握しました。

オウムは、つまり、神智学会のヨガから来ています。
 
この記事は(1)ですが、
 
(2)の記事で、
1980年代後半の「日本のクンダリニーヨガ」の輪郭が少しわかるような
ことも書きたいと思います。
 
(2)では、1980年代の、他のクンダリニー・ヨガの教師と比較したいと思います。
オウムとは違って、ちゃんとインドの古典から学んでいた教師です。
 
(2)は、事情により、ファン限定です。
 
(2)の教師の他にも、佐保田鶴治、沖正弘、番場一雄などが、
インドの古典に学んで、瞑想もしていましたが、
 
(2)の教師は、実は神智学会の影響から始めたことと
超越瞑想をといたことと、クンダリニーヨガを薦めたという点で、
オウム似通っているところがあるのです。
それでも、オウムとはまるっきり違った道筋をたどったことを、
強調したくなりました。
 
 
 
ここからは、オウムの教えの問題点をいくつかチェックします。
 
そもそも「教組を神と見て、絶対的に帰依する」などということは
正統なヨガにはありません。
 
そんなことをすれば、おかしくなるに決まっています。
ここが一番おかしいところかもしれません。
 
正統なヨガでは、先達を尊敬して、先達に忠実であることは求められるかもしれませんが、先達を神として帰依するということはないでしょう。
正統なヨガは、実は、神への熱烈な愛を中心にしてなりたっています。
 
そもそも「宗教団体の教組を神として帰依」しても、保つことができたのは、歴史上、キリスト教以外にはなかったのではないでしょうか。
 
オウムは麻原彰晃を最終解脱者としていました。
最終解脱者でないことは、一目瞭然です。
そもそもが全くのウソなんですね。
 
 
オウムの問題点を続けます。
「下のチャクラから開かなくてはならない」なんて、ありえません。
 
確かに・・最初から下のチャクラにも働きかけるのですが、
あくまでも、第三の眼を開きながらやるのです。
 
下のチャクラから最初に開くと、悪霊つきの、低級霊能者になると
言われます。
 
オウムが悪霊つきの低級霊能者になっていくことは、ヨーガの知識の中では予言されていたともいえます。
 
わたしは若いころから、オウムとは違って、インドの伝統をふまえた
超越瞑想のクンダリニーヨガのヨガの本を読み、多少実践もしていました。
 
その立場からいうと、オウムの「生死を超えて」は、そもそもインドの
クンダリーニ・ヨガはふまえていないですし、
なにからなにまで、メチャクチャです。

理論物理学者の保江邦夫は、スピリチュアルのスターになっています・・。

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本山博の話が出たところで、関連している話を書きます。
 
***** 
 
 
最近話題のスピリチュアルの人として
保江邦夫」という人がいて、
 
この人は、もともと理論物学者で、物理学の新理論を発見したことで
世界的業績をあげた人ですが、
 
その後、愛のパワーをつかう?不思議な合気道をやっていて、
 
さらに、2012年12月21日になる直前に
白山神社の巫女たちや、様々な霊能者から、かつぎあげられて
 
エジプトのギザのピラミッドで、
 
古来から天皇に対し行ったと言われている
 
はふりの神事」を受けたということで
話題になっている人です。
 
今、人気上昇中。
 
ネット通販で、本が品切れ状態です。
 
アシュタールの受肉とも言われています。
 
本人は、理論物理学と合気道をやっていただけで、
「はふりの神事」や「アシュタールの受肉」は周囲が言いだしたことらしいでが、
 
アシュタールらしく、地球に
第二の宇宙連合ステーションを創る計画らしいので、私は興味をもっています。
 
 
わたしは保江邦夫と比較すると、スモールスケールだし、
有名でもありませんが、
自分と共通するものを感じるところがあり。
 
ちょっと注目しています・・・。
 
保江邦夫と、本山博がどう関係があるのかというと、
 
本山博も超越ヨガの行者で、チャクラが見える人であるので
 
保江邦夫が合気道をやるにあたって、合気道の技の頻度など、
アドバイスしたと読んだからです。
 
保江は、本山を尊敬しているらしいです。
 
****
 
本山博と、麻原彰晃。
 
ともに、神智学会の影響も受け
自ら、先達のものを組み合わせて自分の修行法を確立し
1980年代にクンダリニーヨガの教室をやっていて
超越瞑想を教えていた二人ですが、
 
かたや、今話題の人にアドバイスを与えて、尊敬される身の上。
 
かたや、大量無差別殺人事件を起こして、死刑囚。
 
どうしてこんなに差ができたかと・・・思うでしょう?
 
本山のほうがマジメで、良識を守ろうとし、学識も科学者としての態度も
あったということは言えますが、
 
一番の違いは「本山のほうは、ヨガの基本は神を愛すること」だと
いう基本を理解していたからだと思います。
 
何度も言っていますが、わたしがいう「神」とは特定の宗教の神ではありません。
 
 
 

ドーリル博士の善悪識別のススメ。読書ノート。

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モーリス・ドーリルの本「秘教真義」から引きます。
 
なんか私、一気にドーリルのファンになりそう。
神智学会のサタニストたちが絶対に言いそうもないことが書いてあります。
 
この文章が書けたら、サタニストでない証明ですね。
 
****以下、引用***
 
七.識別
 
 もし我々が識別能力をもっていないと、正邪善悪真偽を見分けることができないから、求道者として最初に開発しなければならない能力の一つとして識別力が
あげられる。求道者としては、いかなることを見聞しても、それについての
正邪善悪の区別が出来なければならないのである。
 
 求道者がこの識別力を訓練し向上させてのみ、真の指導者と偽の指導者とを
見分け、真の光の大師と邪悪な魔術大師とを区別できるのである。
 
 この世の中には、光(神)と一体となることのできる意識状態にまで人々を
啓発工場させようと努めておられる聖なる大師がたがおられることも事実だが、
 
聖大師とは反対に、自分たちが出てきたところの暗黒不調和の中へと人々を
引き入れようと賢明になっている邪悪導師達がいることも事実であることを
知らなければならないのである。この邪悪導師(ブラック・マスター)は東洋は
グラックドグパスとして知られているのである。
 
 無限の古代から邪悪導師達(ブラック・マスターズ)が
聖大師達(ホワイト・マスターズ)とともに併存したのであり、
いつも聖大師の働きを打ちこわそうと努めてきたのである。
しかし、いついかなる時といえども、光は暗黒を克服してきたのである。
 
 この様な善と悪との戦いが、しばしば戦われた時によく使われる
呪術語(マントラム)が古代から伝えられている。
 
それらの中でも最も重要なのは
 
ティア・ベル・アメト(TIA BEL AMET)
 
と唱えるものである。
 
この語の力は、悪魔たちが自分らの周囲を暗黒魔術(ブラック・マジック)の力でもって光明と正善とであるらしく見せかけている幻のベールを引きはがしてくれ、
 
悪魔術師の本当の外観を露見させてくれるのである。
 
悪魔術師らのあるものは時折、燦然たる光明に囲まれてあらわれるし、
 
彼らは常に、もし、私に従うなら大師聖者となれる平易な方法を教えて
あげようと言いよるのである。
 
しかし、実際問題として大師となれる安易な方法なんてあるわけはない。
 
聖者・大師となるには、唯々困難なる道を熱心に真剣に務めるしかほかには
方法がないのである。
 
 
 我々の心像にだろうと夢にだろうと、この様な変そうした悪魔師の姿と思われる
ものがあらわれたら、その者が悪魔術師でないかを
 
「ティア・ベル・アメト」と心のなかでとなえるか声を出してとなえるかしてみたらよい。
 
もとそれが悪魔術師だったら、その外見の幻影が引きはがされるであろう。
そしてその本当の外観があらわれる。
 
このマントラム(神秘語)はまた、部屋や家屋の悪いバイブレーション(振動)を
調和するのに使われ、悪的・即ち否定的バイブレーションを追放する力をもっているのである。
 
 
 
 多くの求道者は、悟道・光・神への安易な道を探しているが、安易な方法なんてあるものではない。
 
本当の大導師(マスター)は、求道者の真剣かつ誠実な努力を続けた時にのみ
その人のところに来られるのである。大師にいつも顕現する用意ができているのは
事実だが、
 
大師がた御自身は、人々がその人自身の力で大師と接するための心的霊的準備が完了するまでは、その人の所へは絶対に来られないである。
 
マスター(大師)という地位は、人間の霊的進歩に関する限り最高段階のものである。大師という語は、単に神の光を見、神の光に満たされるということを意味するだけではなく、それはこの我々の宇宙周期のすべての法則の完全熟知をも意味するのである。
 
 
 すべて進化しつつあるものは、目には見えない様なゆっくりした速度で
発展しているものであり、人間の進化発展も同様に緩慢なものである。
我々は今の進化状態にまで至るのに何百万年も経ており、まだまだ大師の地位を
得ていない人間も無数にあるが、
 
この何百万年の間にもっともっと無数の何千億もの人々が大師の地位に到達してしまっているのである。
 
人間は精神的にボンヤリと眠った様になっていては、いつまでたっても
光に到達することはできないのである。
 
人間は生き生きししているべきであり、注意深くあるべきである。
 
自分の人生におこりくる極めて小さなヒントを得るのにも、自己の全能力を使うべきである。
 
求道者は、自分を引き戻そうと望むよくない師に、安易な道に入らせようと言われて、盲目的にそれに従うといったことの絶対にない様にしなければならない。
 
安易な道を説く人は、もし、我々が十分にリラックス(弛緩)し、
愛と平和と調和とに瞑想しさえすれば神を観ることができるというが、
それは偽りである。 
 
我々は、この瞑想に加えて自己の積極的行動を伴わさない限り、
その人が心の中で創った幻の世界にいつまでも住んでいるだけなのである。
 
 正しい想念・おおらかな心・確固不動の識別力といったものに加えるに
行動が伴ってはじめて求道の秋天に近づくことが出来るのである。
 
 
 
*****私の感想。
 
ドーリルさん、きびしいですね。
 
しかし・・善悪をチャンと見極めろという主張に共感しました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

アセンションしたと感じる方々へ。仲良くしましょう!!

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2012年12月21日にアセンション(次元上昇)があると話題になり、
 
期待していたのに、思ったのと違うと感じた方が多かったようですが、
 
私はあれからずっと「アセンションって、本当だったんだ・・」と感じています。
 
なんだか、次々に、めくるめく、不思議なことが起きてませんか?
 
次元上昇とは、次元を選べるということらしく、
 
だから離合集散も進んでいるのかな?
 
(本当を言うと、お別れが悲しく感じることもあるのですけど。)
 
でもまあ、行きたいところに行くしかないですね。 
 
 
多分、2014年4月・・今月は、ますます離合集散が進むのかも・・。
 
4月は、分離も集合も進む時になるのかもしれません。
 
日本が戦争できるようにと、頑張っている人々もいるようですね。

大田俊寛の問題点。

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大田俊寛がオウム真理教について述べた本を読んでみました。
 
大田によると、オウム的なものは、
 
ニーチェの超越思想に影響を受け、
フリーメイソンが始めたと言われる
神智学会の影響下にある【超越思想】だということで、
 
大田の本を読むと、麻原彰晃と、本山博と、桐山靖雄は
超越瞑想とか、超能力を問題にしたということで、
神智学会の影響下にある、同じ穴のムジナ的な感じに
書いてあります。
 
オウムに関しては、神智学会の影響下にあるというのは、重要な
分析だと思います。
 
易坊さんの指摘によると、麻原彰晃は、ダンテス・ダイジに影響を受けて
いるそうですが、ダンテス・ダイジも神智学会の影響下にあると思います。
 
人間の霊体を、エーテル体・アストラル体・コーザル体に分けるところなど、
神智学会も、オウムも、ダンテス・タイジも、同じですね。
 
オウムの早川キヨヒデが書いた本によると、オウムでは、コーザル体を重視し、
「コーザル体になりきれ」というようなことが言われていたらしいです。
 
私は桐山靖雄についてはあまり知らないので、桐山氏のことはなんとも言えないのですが、
 
大田氏、本山博と、麻原彰晃を、同じ次元だと読ませるのは、問題があると思いました。
 
本山博は、超越瞑想をとなえるところや、超能力に言及するところや、
神智学会の影響を一部受けているところはオウムと同じですが、
 
常識的な意味での善悪を大切にし、常識的な意味での善人に
なることを重要視しています。それから、人間がおごって、神と同列に見せようと
することは、厳しく戒めているようなところがあります。
そういうところは、ニューエイジより、旧宗教に似ています。
 
さらに本山博は、ちょっとくらい超能力が出たからといって、
思いあがることを禁止しています。
当の本山博も、霊能力を発揮したエピソードがそれなりの数、あるようですが、
決して、自分は神であるとか、最終解脱者であるとか、言いません。
 
一方、オウムは、麻原彰晃を安直に「最終解脱者」と言ってしまい、
麻原彰晃に絶対的に帰依するように、求めています。
現世の財産もすべて投げ打って、すべてを麻原に捧げるように言っています。
 
ファシズムですよね。
 
麻原彰晃を神のように思い、絶対的に帰依すれば、必然的に、
麻原を否定する人間は、この世から不要だという考え方が生まれてくると思います。
 
オウムは、最初から、殺人集団になる要素を種としてもっていたと思います。
ファシズムの行きつく必然だと思います。
 
 
大田の本の問題点の一つは、例えば本山博のような存在と、麻原彰晃が
同次元に見えてしまうように書くところですが、
 
もう一つは、神智学会や、ニーチェのはるか前、
インドの伝統的な哲学の中に、超越思想があるということを、
あまりにも無視して書いているという点です。
 
ただ・・・これは、便利なところもあります。
 
つまり・・・オウムがいろいろ誤解されたのは、オウムはインドの伝統に従っている
と、異様に、過度に、誤解されたことによるわけですが、
 
オウムはインドの伝統よりも、神智学会の影響下に、属しているということ、
ここをしつこく強調してくれたのは、よい点だと思います。
 
オウムはとても現代的なものだと、そこを理解させようとしている点は、
評価できます。
 
オウムがインドの伝統に従っていると誤解されたことで、
様々な問題が生まれたのは、間違いないと思っています。
 
 
 
 
 

シャンカラや、ウパニシャッドに、【ワンネス思想】がある。

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一説に、インド最大の哲学者といわれるシャンカラは、8世紀の人。
 
シャンカラはインド哲学の古典に注釈を書いた人ですが、
シャンカラが注釈を書いたもののなかで、インド哲学書の代表的なものである、
ウパニシャッドは、紀元前7世紀ごろから、少しずつ書かれたもののようです。
 
ウパニシャッドには、輪廻転生思想が描かれてるとともに、
人間の真我を神と一致させようとする運動があり、
現代のスピリチュアリズムや、ニューエイジ思想に、近いものだと思います。
 
釈迦が始めた仏教の初期経典では、輪廻転生や、アートマン(真我)の存在を
明言することが避けられているわけですが、
ただ、初期仏教の経典では英語の【IT】的な指示語がとても多くて、
そこに輪廻転生とか、アートマンを代入することは可能ではあります。
 
わたし自身は若いころから、仏教の初期経典的な方向にではなく、
ウパニシャッドのほうに惹かれる傾向がありました。
輪廻転生があるとしたら、輪廻する主体がないとおかしいので、
アートマンを否定してしまうと、論理的に矛盾するから、ということもあります。
 
 
シャンカラがインド最大の哲学者と言われる理由は、たとえば、ウパニシャッドの
真意を、より一層、明瞭にしたところにあると思いますが、
 
そこには、アートマンと呼ばれる真我が超越して、【神】的なものと合一することを
目指す、思想があります。超越思想の典型ですね。
 
 
大田俊寛がオウムについて述べた本で、オウムの超越思想を、すべて、
ニーチェと神智学会から説き起こしていますが、
それと別起源の超越思想は、もともと、インドにはあったわけです。
わたしは、神への愛が見られないという点で、オウムは、神智学会の
直系であるとする大田の意見は、正しいと思っています。
 
神智学会の超越思想も、インドの古典から、ずいぶんと題材を借りています。
インドの古典から、「神への愛」と「善悪の感覚」を
取り除いたものが神智学会のインド的経典だと言ってもいいと思います。
 
神智学会は、カバラや占星術について語ったり、聖白色同胞団について語るなど
ドーリル博士と共通点がありますが、
ドーリルは、善悪の別について強調していて、善に対する熱愛が見られますので、
神智学会のサタニストとは根本的に違うのではないかと思っています。
 
それとも、ドーリル博士は、「白いフリーメーソン」「黒いフリーメーソン」の
白いほう??
 
正直なところ、よくわからないのです(笑)。もう少し、研究しようかなと。
 
さらに神智学会のメンバーは、悪魔志向のサタニストと、そうでない人に分けられると思いますが、
 
ルドルフ・シュタイナーや、クリシュナムルティは、
サタニストではないと思うので、このあたりは、わたしは嫌いではありません。
 
リードビーターはフリーメーソンだったと言われていますが、わたしがチェックした範囲では、リードビーターの著作からも、とりあえず、サタニストである証拠が
発見できていません。
シュタイナーは、非常にオリジナルなことも言っていて、現在でも種々、
参考になるところがあると思います。
 
でも・・ブラヴァツキーや、パウエルや、クロウリー、ダイアン・フォーチュン、
ベイリー、クレームあたりは、そもそも、意図に問題があるように思います。
 
さて。サタニスト側の神智学会員と、
 
インドの本来の伝統の超越思想の、どこが違うのかというと、
インド本来の超越思想では、神は熱愛されているのですよね。
 
バガヴァッド・ギータというものがあって、1世紀くらいの成立とされています。
わたしがもっているのは、三浦関造訳のものですが、
全編にわたって、神への賛美が繰り返されるような内容。
 
シャンカラは、バガヴァッド・ギータに対しても、注釈を著しています。
 
現代の超人気瞑想家、聖人だと思われている
ニサルガダッタ・マハラジや、
パラマハンサ・ヨガナンダや、
ラマナ・マハリシの本を読むとわかることですが、
 
彼らの基本は、神への熱愛です。
 
ヒンズー教の、ウパニシャッドや、バガヴァッド・ギータにつながる
思想だと思います。
 
 ・・
 
ところで、神と悪魔、どちらが自由だと思いますか?
 
わたしの語感としては、神は何をしても許してくれるので、
神のほうが自由。
 
悪魔は人間を恐怖で縛るので、悪魔のほうが不自由。
 
わたしはこういうイメージなんですね。
 
自由に関しては、わたしと逆のイメージの人が結構いるようですね。
 
 

白いフリーメーソンと、黒いフリーメーソンがあるのかしら?

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最近思っているのは・・・、フリーメーソンには種類があるのかしらということです。
 
私は、三度臨死体験した科学者、木内鶴彦さんのファンなんですね。
それから・・秋山真人さんにも、興味があります。
 
木内鶴彦さんの講演会に行ったら、木内さんと、ナカマル薫さんの
共著を売っていて、サインが欲しかったので、買ってみました。
おかげさまで、木内さんと、ほんの少し、お話ができました。
 
ついでに、秋山真人さんと、ナカマル薫さんの本も読んでみました。
 
ナカマルさんは、コシミズや、フルフォードと同じく、オザワを持ち上げる立場なので、
私はその点は、納得してないのです。
 
スピリチュアルな立場や、陰謀論でなんと言おうと、オザワが本質的に反米で
あるという話は、筋が通らないと思うわけです。
 
もともとオザワが幹事長時代に米国債を100兆円買ったところから、
日本の借金が始まるわけでしょう?
 
民主党というものも、結党当時は、アメリカに都合がいいものであったはずです。
オザワについて、マスコミが言ってることは、本当とは思えないわけです。
それはともかく。
 
ナカマル氏の話で、気になったのは、フリーメーソンにも、白いものと、黒いものがあるという話。
 
 
わたしは少し前から、ドーリル博士という人が気になっていました。
 
聖白色同胞団とか、カバラの話とか、占星術の話などするドーリル博士は、
「黒いほうのメーソン」である、神智学会のサタニストたちと、同じような分野の話をしますが、
よく見ると、善悪の別をハッキリさせようとしていたり、
完全なサタニストたちと、微妙に違っています。
 
 
さらに、神智学会でも、シュタイナーとか、リードビーターとか、
クリシュナムルティは、サタニストには見えません。
このうち、リードビーターは、フリーメーソンだそうです。
 
リードビーターは、クリシュナムルティを無理やり教組にしようとしたり
作意的なところがあって、それでシュタイナーの神智学会脱退を招いたのですし
クリシュナムルティ自身も神智学会を脱退しているので、
作意的なところは、十分ワルなのかもしれませんが・・。
 
 
善を愛し、神を愛する、「白いフリーメーソン」もいるということかしらと、
最近は、思っています。
 
***
 
わたしはスピリチュアルの世界では、神を愛するようなタイプの人が好きです。
 
サタニストは嫌い。
オウムのように、殺人するような宗教も嫌いです。
 
そして・・神や善を愛する、白いフリーメーソンがいる、ということかな・・と、最近は思っています。

マグダラのマリアの話と、ダヴィンチ・コード、どこまでが白で、どこからが黒なのか?

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ずいぶん前、ダン・ブラウンの小説「ダヴィンチ・コード」が世に出たとき、
広告をチラと見て、「フリーメーソンの匂いがする」
「デマである可能性が高い」と、断じてしまいました。
波動が、フリーメーソンの波動だったから。
 
友だちや、いろんな人びとが教養書としてダヴィンチ・コードを読んでいるとき、
友だちが一生懸命、ダヴィンチ・コードの内容を力説しているとき、
私は「あれは、ウソが含まれている」と言っていました。
 
映画「ダヴィンチ・コード」は、テレビでやったとき、最後の20分くらいは観ました。
 
フランス人の女優、オドレイ・トトゥが出ていて、最後に、
「イエス・キリストの娘、サラは、薔薇十字会に入った」というようなことを言っていたと思います。
 
「イエス・キリストを、薔薇十字会と、フリーメーソンの宣伝に使っちゃってる映画」と、とらえたものです。
 
 
 
その後、マグダラのマリアの福音書を読んでみたり、
 
フリーメーソンではない人々がマグダラのマリアをどう考えているかを
探ったりして、
 
神秘家のトム・ケニオンや、アモラ・クァン・インの意見は面白いなと思ったりしていました。
古代エジプトの叡智としてタントラを修行してから、イエスの妻になった
マグダラのマリアを描いていたのです。
 
 
そして・・・イメージとしては、伝統的キリスト教でもなければ、ダヴィンチ・コードでもない、中間くらいのところを、想定するようになりました。
 
 
マグダラのマリアは、イエス・キリストの妻だったのだろう、
だから、彼に香油を塗ることができたのだろうと思いました。
 
 
しかし・・イエスの娘が薔薇十字会に入ったとか、フリーメーソンにつながるとかいう話は、額面通りに受け取る気持ちはありませんでした。
 
「きっと、現代のフリーメーソンが、マグダラのマリアを利用しようとしているのだろう」という気持ちが消えなかったからです。
 
 
 
さて。現代のフリーメーソンになったのは、
ヴァヴァリアのイルミナティの結成者アダム・ヴァイスハウプトが
フリーメーソンを支配するようになってからだと言われます。
 
古代からあったフリー・メーソンを乗っ取って、一気に悪魔崇拝団体にまで
してしまった人物です。
 
しかし・・・・ルドルフ・シュタイナーには、その前の時代のフリーメーソンや、
薔薇十字会が見えていたようです。
 
咲社さんのところに書いてあったことですが、
ある時期のシュタイナーは、
 
ES(エソテリックスクール=秘教的学校の意味)の講義に
 おいて、フリーメーソンの起源について、
古代の「エジプトの秘儀」「ギリシャの秘儀」に遡り、「旧約聖書」や「マニ教」との関連にていて神秘的・秘教的な立場から詳細な部分にまで及んで、解説を行なっていた。」そうです。
 
「それは、シュタイナーの思想の起源を、薔薇十字会(ローゼンクロイツ)にまで遡る時、その薔薇十字会が古代エジプトの叡智とキリスト教の救済思想との結びつきから生じてたことに、その一因があった。」そうです。
 
つまり・・シュタイナーは、古代エジプトの叡智が流れ込んだものとしての
古い時代の薔薇十字会、およびフリーメーソンというものをとらえていて、
それは、アダム・ヴァイスハウプトがフリーメーソンを堕落させる以前のものらしいのです。
 
薔薇十字会にしても、フリーメーソンにしても、あるいは
マグダラのマリアの伝説についても、堕落して、黒いものになった後と、
堕落する前、イノセントだった時の、両方があるらしいのですね。
 
白と黒、どこから線を引いていいのか、なかなか難しいです。
 
慎重に考えたほうがいいような気がしています。
 
多分、南フランスに、イエス・キリストの血脈が流れ込んだという話の全体を
疑ってみたほうがいいと思っていますが、
あくまでも、慎重に行きたいと思います。
 
わたしの友達も「南フランスに、イエスの血脈が流れ込んだ」という説を信じているようですが・・・。
 
少なくとも、ダヴィンチ・コードと、その元ネタである「レンヌ=ル=シャトーの謎」には
いろいろとウソが書いてあるような気がしますので、
 
ゆっくり検証したいと思っています。
 
 

マグダラのマリアの福音書の成立について。

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マグダラのマリアの福音書は、初期キリスト教の、文献である。
キリスト教の確立の前、グノーシス主義の時代の文献ということになる。
 
「マリア福音書」の成立地はどこか。
 
1896年1月、エジプトはカイロの骨董品市場で、
ある写本の売買業者が、一冊のパピルス本を
カール・ラインハルト博士というドイツ人学者に売った。
やがてその本がコプト語で書かれた紀元5世紀のパピルス写本であることが
明らかとなるのだ。
 
両者とも気づいていなかったが、その写本は、それまで知られていなかった
他の三つの作品、『ヨハネのアポクリフォン』『イエス・キリストの知恵』『ペトロ行伝』に
加えて、『マリアの福音書』を含んでいたのである。
 
ちなみに「ヨハネのアポクリフォン」は、グノーシス文献の代表と呼ばれるものである。
 
『マリア福音書』は、写本のすばらしい保存状態からみて、この1500年もの間、
人知れず壁がんに放置されていた可能性はまったく考えられなかった。
 
 
一方、こうした中で、1917年には、3世紀に書かれた『マリア福音書』のギリシア語の小断片【ライランズ・パピルス】がエジプトで発見される。
 
このギリシア語の断片はコプト語訳本文の一部と対応していたが、
1896年に発見された『マリア福音書』に新しく加えられるべき部分はまったく
含まれてはいなかった。
だが、その発見によって本文上のいくつかの相違点の存在や、また、やや早い成立年代やギリシア語の文章に関する新しい証拠資料がもたらされた。
 
 
戦争が終わるころ、ナイル川上流のナグ・ハマディという村の近くで
エジプトの第一級の写本が発見されたという知らせがベルリンに伝えられた。
偶然にも、ベルリン写本中に『マリア福音書』とともに発見された他の二つのテクスト資料(『ヨハネのアポクリフォン』『イエス・キリストの知恵』)が新しく発見された
写本の中からでてきた。
ところが『マリア福音書』の新しいテクスト資料はナグ・ハマディの文書には
一切含まれていなかった。
 
1955年、ついに最初の『マリアの福音書』が本文のドイツ語訳付きで出版された。
 
そして、またもや三世紀初頭にさかのぼる『マリアの福音書』のギリシア語の断片【オクシリンコス・パピルス3525】が発見された。これは1983年に出版された。
 
 
この断片が加えられたことにより、成立年代が古代にさかのぼる
『マリア福音書』の三冊の写本をわれわれは確保したことになる。
 
すなわち、三世紀初頭のギリシア語写本【オクシ・パピ3525】【ライ・パピ463】が
二つ、
 
それに五世紀のコプト語写本【ベルリン写本8502】が1つである。
 
 *****
 
写本の主なものはエジプトで発見されている・・わけですね。
 

娼婦でないことを、1969年以降、教会も認めている、マグダラのマリア。

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20世紀に生まれた日本人は皆、【マグダラのマリアは、娼婦であった】と習っていると思いますが。
 
実は、歴史的に言って、マリアが娼婦であった証拠は、まったくないそうです。
 
6世紀に、教皇グレオリウスが誤解にもとづいて発表して以来、
約1400年間、娼婦ということになっていましたが、
 
1969年に、カトリック教会が、娼婦でなかったと認めているそうです。
みなさま、御存知でしたか?
 
聖書の中にマグダラのマリアに関する記述と無名の娼婦に関する記述が
並んで出てくることから、その無名の娼婦は、マグダラのマリアに違いないと
されてきましたそうです。
 
1969年に、バチカンが正式に、「マグダラのマリアは娼婦ではなかった」と
認めていたのに。
 
1969年の後も、日本では、ずっと、娼婦ということになっていましたよね?
 
どうしてなのでしょう?
 
 
歴史を鑑み、文献を調べていくと、娼婦であるという証拠は全くなく、
 
イエスの妻であった可能性が指摘できるらしいのです。
 
 
【ダン・ブラウンのダヴィンチ・コードの世界】については、
種々の点で真実ではなく、作り話であるという指摘を、後ほどの記事で
したいと思っています。
 
そもそも、シオン修道会なるものが、ウソ。
 
さらに、マグダラのマリアがイエスの死後、南フランスの
レンヌ=ル=シャトーに身を寄せたという話も、ウソらしいです。
 
しかし、私はマグダラのマリアが、イギリスのグラストンベリーに行ったという
話には興味をもっているのですけどね。
 
 
 
マリアが娼婦でなかったことと、イエスの妻であったことは、いくつかの観点から、
指摘できることであるようです。
 
イエス・キリストの母・マリアが、純潔の処女のイメージをまとってしまったため、
 
マグダラのマリアは別のイメージを押し付けられることになったようです。
 
1400年の長きにわたってです!!
 
 
 
キリスト教会としては、民衆の支配のためには、
まずはセックスを支配したかったため、セックスは罪悪であるとしたほうが都合よく
 
そのためにはイエス・キリストもピュア(純潔)ということにしたかったので、
 
それでマグダラのマリアが、イエスの妻、あるいは愛人であった可能性を
排除してしまったのではないでしょうか。
 

常陸国風土記(茨城県の古代史と伝説。)の話から・・今後の「北」を考える。

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井上辰雄さんの、「常陸風土記の世界」から抜き書きしたいと思います。
 
***
 
常陸の国は、常世の国である。
「風土記」の筆者は、その願望にもとずいてこの書を著した。
なぜならば、常陸の国は、「風土記」の記述者にとって、
祖先発祥地と信じられてきたからである。
 
「風土記」の進撰を全国に命じた、藤原不比等や、【常陸国風土記】の執筆者に擬せられる、藤原宇合(ふじわらのうまかい)にとっては、一族の栄華のルーツが
常陸の国にあると考えられていたのである。
 
いうまでもなく藤原氏が奉祭する最高の神、鹿島の建御雷命(たけみかづちみこと)も、常陸の国に鎮座し、守護していた。その常陸の国になみなみならぬ関心を
抱いて赴任した新進気鋭の藤原宇合は、この国の物語を、心をこめて華麗な
文体で飾ったのは、常陸の国を理想の世界として描きたかったからである。
 
 
***
 
わたしは最近、時々茨城県に行きます。
そんなこともあって、常陸国風土記の解説書を読んでみました。
 
常陸国は古いところですね。
 
昨年の秋、常陸国の、「龍神山」に行き、龍神山の女神と男神を
祀っている神社に、参拝しました。
 
龍神山は、太古には崇拝されていたようですが、
いつの時代に行われたのか、パックリと、二つに分けられていました。
なにか資源を取るために、山を削ったようです。
 
***
 
「北」がこれからどうなるのか、気になっています。
 
たとえば関東北部がこれからどうなるのか、気になっています。
 
あるいはもっと広範囲に・・日本海側という意味での「北」が、
これから太平洋側と、統合されていくのではないかと思っています。
 
ごく狭い範囲でいうと、中央線の三鷹駅あたりも気になります。
20年前、三鷹駅は、北側だけ発展しないので有名で、
因縁のせいだと言われたいたのですが・・
だいぶ変わったようですね・・。
 
****
 
日本海側という意味での「北」の象徴は、出雲の国。
 
昨年、出雲大社と伊勢神宮の遷宮が行われたこともあり、
出雲と伊勢の因縁がついに統合されるのではないかと言われていました。
 
出雲はキッチリ60年で遷宮したことがないため、実は伊勢神宮と同時だったのは
歴史はじまって以来だという説もあるのです。
 
 
 
 
昨年、渋谷と横浜を結ぶ東横線が、春から、すべて埼玉県に乗り入れるように
なったのでした。
 
埼玉県には、異様に氷川神社が多く、氷川神社はすべて、出雲系です。
一方、神奈川県は、スサノオ系の神社が、とても多いようです。
 
東横線が埼玉県と結ばれたことを、わたしは出雲と伊勢の因縁が解ける象徴みたいに思っていました。
 
なんとなくですが・・これから、埼玉県は変わるかもしれないと思っています。
埼玉県は、太古には・・行田の稲荷山古墳の古さに象徴されるように・・栄えていたところでした。
 
明治になったとき、東京に、いれなかった分の「武蔵の国」が埼玉県になった
わけですが、あまったところをくっつけたということもあり、埼玉県の人は、
郷土愛が薄い・・などと、よく言われています。
 
これから、埼玉県は、変わるのでしょうか?
 
***
 
同様に??
 
茨城県の因縁も解けているのかもしれないと思っています。
 
最近、茨城の観光地は、人気上昇中なんですよね。
 
おしゃれなイメージがアップしていて、洗練された雰囲気が、ウケているとのことです。
 
それは、30年前に、「津和野と萩」の人気が上がった・・時のようであるようです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

高円宮典子さまと、千家国麿さまの御婚約。

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おめでとうございます~~~!!!
 
高円宮典子さまと、千家国麿さまの、御婚約がととのいましたね。
 
千家国麿さまは、出雲国造(いずものくにのみやつこ)の御子息、
 
つまり、簡単にいうと【出雲のほうの天皇家】の直系ということになると思います。
 
両天皇家が結ばれたということになりますね。
 
うるうるうる・・
 
・・感動して、ジン、と、涙がでました。
 
 
 
 
 
わたしは、ここ数年、出雲と大和の統合に注目していました。
日本国が、その真のパワーを発揮するためには、
出雲と大和の統合は、不可欠と思っていたからです。
 
 
ついに、出雲と大和の統合は、ここまで来たか、と感動しきりです。
 
うるうるうる・・。じ・・・ん!!
 
 
3世紀だか4世紀だかよく知りませんが、
 
古代、大和による征服により
 
アマテラスの家系が、出雲と大和に分裂したこと、
これが記紀の主なテーマですよね。
 
 
そして昨年2013年の出雲大社と伊勢神宮の遷宮とともに、
統合されたのではないかと、注目してきました。
 
 
・・・はい、そうです
これは、スピリチュアルなお話です。
 
 
スサノオ系の神社が多い神奈川県から東京に走っている
東横線の急行がすべて、2013年3月に埼玉まで通るようになったことに、
1つの【統合の象徴】を観ていました。
 
東横線は、夜中、たった四時間の工事、
作業員2000人による奇跡の突貫工事で、副都心線に結ばれました。
 
私も、東横線を利用しながら育ったので、以前の渋谷駅がなくなったことは
ほんの少しさびしかったですけれども。
 
 
埼玉県は、氷川神社が多いところです。氷川神社はすべて出雲系。
 
つまり、神奈川はヤマト、埼玉はイズモの象徴と見ても満更
おかしくもないので、伊勢神宮と出雲大社の両方の遷宮の直前に
東横線の急行が、すべて埼玉まで通るようになったのは、不思議な感じでした。
 
 
これからは、出雲にからんだ地域が少しずつ変わるのではないかと思っています。
 
わたしは、今年2014年の5月25日までかけて
諏訪大社--三峰神社--鹿島神宮に旅行したのですが、
  
諏訪大社--三峰神社--鹿島神宮は、諏訪大社が出雲と見られているところから、
出雲系と見なしていいと思います。
 
三峰神社や、鹿島神宮には、大変な威容を感じました。
何か、とびぬけた力を感じます。
 
関東における出雲のメタファーである、埼玉県と、茨城県は、
ずっと田舎と見られていましたが、
出雲と大和が統合されてきたので、
これからは変わるのではないかと思っています。
 
たとえば、茨城県の笠間市は、最近、文化的でオシャレな焼き物の街として
、益子とセットにしてカサマシコなどと呼ばれ、注目され始めているようです。
 
 

日本の、伯家神道が、もっとも善玉?のメーソンとして、アトランティスから、エジプトに伝わった秘儀を伝え、今も存続している・・という解釈でOKみたい。

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アトランティスの叡智は、古代エジプトなどを経て、
実は日本白山神社伯家神道に伝わっていた。
 
いろんな情報をまとめると・・・ぶっちゃけると、そういうことになります。
 
もしも、以下に書いた情報のうち、間違っているものがなければ、そういう
ことになる・・という話ね^^
 
そもそも、古代エジプトの前のシュメール文明は、日本から伝わったものだという説がある。
 
日本の文明が古い証明は、神代文字などに求められるという。
 
最近、いろんなことが統合されつつあり、おもしろくてしょうがないし、
情報をまとめるのに、忙しくてしょうがない^^ですが
 
情報を観ていくと、「これは、ウソだな~」という部分もあります。
それについても書いてあります。
 
 
 
 
ルドルフ・シュタイナーによると、
アトランティスの叡智は、エジプトに伝わった。
その叡智を守ったのが、古代の【エジプト・メーソン】であり、
その後の【薔薇十字会】である。
 
(ただ、要注意なのは、ルネサンス以降、21世紀現在にいたるまでメーソン】や【薔薇十字会】は多くの点で、人類支配を目論むグループに乗っ取られていることである。)
 
ドランヴァロ・メルキゼデクによると、
アトランティスの統治者、アーリッチ・ヴォマリテスは、
古代エジプトでは、トートになり、
古代ギリシアでは、ヘルメスになった。
この人物が、アトランティスの叡智をエジプトに伝えた。
 
 
最近、多くの人が言うには、イエス・キリストと、マグダラのマリアというカップルは、古代エジプトの秘儀に通じ、タントラ儀式のパートナーであった可能性がある。
 
しかし、イエスとマグダラのマリアがカップルであった可能性があるとしても、
ダヴィンチ・コードに書かれた、シオン修道会存在しないし
レンヌ=ル=シャトーと、マグダラのマリアの特別な関係は、まったくのウソである。
 
レンヌ=ル=シャトーに、イエスと、マグダラのマリアの遺物があるという宣伝も
おそらく、まったくのウソである。
 
南フランスにあるレンヌ=ル=シャトーは、
単に、世界征服をたくらむ、ゆがんでしまった
現代メーソンの支配下にある教会があるところ・・らしい。
将来、「イエスとマリアの子孫が発見された」とウソを言いふらして、
権力をにぎろうとしている可能性が高い。
 
しかし一方、マグダラのマリア当時ガリアと呼ばれた南フランスで布教したというのは、本当である可能性が高い。
グノーシスを嫌い、マグダラのマリアに権威をもたせることを嫌った
キリスト教会が隠したことである。
 
一説によると、イエス・キリストが行おうとしたのは、すべて、エジプトの叡智
そった修行である。
十字架にかかったのも、オシリス神として復活することが約束されていたためで、
イエスは、死ぬ前に十字架から降ろされたとみる人までいる。
イエスは、ユダに頼んで、金を渡して、わざと十字架にかかったと思っている人も
いる。
 
さて・・・日本には、伯家神道というものがあり、かつては、日本の天皇家は、
伯家神道に従って、儀式を行ってきた。
その中でも、「はふり(祝)の神事」というものが重要であるが、
はふりの神事は、もともと古代エジプトで行われていたもので、
つまりは、アトランティスから伝わったものである。
 
さらに、イエス・キリストが行った儀式と同じものであるという。
 
白山神社で、古代エジプトの秘儀を守っている」こと
その秘儀は「イエス・キリストが行ったものと同じ」ことは、現在、
白山神社の巫女さんによって、証言されている。
誰か・・もっと証拠を集めてください。伝承の元締めとしては、
白山神社の巫女さんは、信用できるような気がします。
 
アシュタールのエネルギーをもつと言われる保江邦夫は、
白山神社の巫女さんたちと、2012年11月に、エジプトのギザのピラミッドで、
「はふりの神事」を行った。
アシュタール、イコール保江邦夫ではなく、保江が、アシュタールの波長のある部分をもっている・・ということだと思う。
 
アシュタールは、古代日本の、京都府の、鞍馬山に降りたという
サナトクマラと同一だともいう。
 
白山神社と、伊勢神宮は、経線で結ぶことができる。
伊勢神宮に隠された祭神は、イエスキリストと、ミトラ(弥勒菩薩)なのだと
いう説も^^ある。
どっちみち、イエスキリストが日本に来たという説は、多い。
あまり脈絡なく、外国の本に突然出てきたりする記述である。
 
 

「マグダラのマリア利権』獲得の陰謀があるため、マグダラのマリアの話は、ウソが多いよ。(特に、レンヌ=ル=シャトーについて。)

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レオナルド・ダ・ヴィンチや、ヴィクトル・ユーゴーや、ジャン・コクトーが総長だったという「シオン修道会」は存在しないし、
 
「レンヌ=ル=シャトー」にマグダラのマリアの遺体があるという話は、
多分ほぼ、まったくのウソです・・。
 
ダヴィンチ・コードは勿論ウソだし、ダヴィンチ・コードの元ネタになった本もウソ・・。
 
まあ、大変な量の、「ひっかけ本」が出ていますよ。
 
 
マグダラのマリア関係の本に「意図的なウソ」が多いことには、理由があります。
 
「マグダラのマリア利権」を獲得しようとしている人々がいるのね。
 
 
カトリック教会によって、不当に、「娼婦」ということにされたマグダラのマリア。
 
しかし・・そのマリアが、「イエス・キリストの妻」だった可能性は、かなり
あるらしい。
 
つまり・・聖書に載ってる「我が主」という言い方は、当時、夫に対して
普通の呼び方だったという話もありますし。
 
キリスト教の教会が聖書として捨ててしまった外典部分には、
マグダラのマリアが、いかにイエスを理解していたかということと、
いかにイエスに近かったかということを書かれたものが多いそうです。
 
マグダラのマリアの行動も、妻だったと考えると辻褄が合うところが多いらしいです。
 
 
妻というより、秘教のタントラ儀式のパートナーだったという話もあります。
まあ、それは・・・エッチな関係ということなので、平成日本的にいうと、
妻か愛人ということになるのかな。
 
***
 
しかし・・マグダラのマリアの復権を利用して、イカサマの権力を得ようと、
抜け目なく立ち回ってる人々がいるわけです。
 
いわゆるイルミナティとか、近代の
陰謀系フリーメーソンの人が多いと思います。
 
わたしは、この陰謀のことは、かなりハッキリ見えるんです。
 
つまり、彼らは、
 
「マリアとイエスには子供がいた」ということをまず認めさせ、さらに
 
「マリアとイエスの子孫は、21世紀の今も生きている」ということにしたいのです。
 
そして、彼らの一族の人物、もしくは操り人形を立てて、
 
「このお方が、イエスとマリアの直系であられる」ということにして、
 
その人物に、権力を集めたいと思っている。
 
そういうシナリオが、すごく見えちゃう。
 
 
***
 
マグダラのマリアについて色々調べていて思ったのですが・・・。
 
まぁ~、マグダラのマリアの話は、ウソが多いです!!
 
マグダラのマリアや、シオン修道会や、レンヌ=ル=シャトーについての
一般向けの本は、ウソだらけ。
 
「こんな有害なものを、図書館においてもいいのか?」と思うくらい。
 
 
この件については、「とんでも本学会」通称「と学会」の
 
皆神龍太郎の書いた「ダ・ヴィンチ・コード最終解読」という本を、
わたしは9割がた、支持します。
 
「マグダラのマリア利権」にからむウソが、どのように醸造されてきたのか、
けっこう詳しく書いてあります。
 
ある、正直者と思われる有名霊能者も、「マグダラのマリア」のウソの話に
だまされてる・・と、私は思いました。
 
 
****
 
 
ややこしいんだけど、マグダラのマリアが当時ガリアと呼ばれた南フランスに来た・・という話は本当である可能性のほうが、高いと思います。
 
もともと、南フランスには、マグダラのマリアがやってきたという、伝説があります。
 
南フランスは、エジプトのイシス信仰が盛んだった場所なのですが、
 
それがそのまま「黒いマリア」と「マグダラのマリア」と「洗礼者ヨハネ」の
信仰地域になりました。
 
「黒いマリア」は、イシス信仰とキリスト教の習合だと思いますが、
 
マグダラのマリアは、本当に来たのではないかと思います。
 
それゆえ、南フランスは、1世紀には既にキリスト教だったと言われています。
 
1世紀で、マグダラのマリアということは、つまり・・・
 
「グノーシスのキリスト教」ですよ。
 
現在のキリスト教とは違うものです。
 
 
現在のキリスト教は、マグダラのマリアの権威をつぶすところから始まった
ようですが、
 
現在復権しようとしているマグダラのマリアの復権利権に
群がる、「悪い人たち」がいっぱいいることも、忘れてはいけないと思いますし、
 
このネタでだまされるのはバカバカしいので、
 
「マグダラのマリア情報」が出てきたら、よーーーく見て、陰謀系ではないかどうか、
確かめましょう♪
 
 
 

私はなぜ、神を愛し、ルシフェル崇拝を、しないか。

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この記事は、コメント不可にしようっと(ひとりごと)。
 
わたしは、ルシファーを悪いものだと思っていません。
 
ですが、私は絶対、ルシファー崇拝ではありません。
 
 
一方、現代人の多くは
 
「神」と言う言葉に、アレルギーあり。
 
文化によっては、ルシファー崇拝があたりまえという文化で育った人も、
いますよね。
 
 
そこのところを少し書きたいと思います。
 
 
まず、宇宙も世界も、もともとは1つのものだったと、多くの哲学では言っています。
 
特に・・東洋系の哲学ではそうなると思いますし、
西洋の秘教でもそうだと思うし、
近年の・・東洋系哲学に影響を受けた、西洋思想たち・・ニューエイジ思想でも
そうなると思います。
 
その・・原初の「たった1つ」であるとともに、すべてのものの源であるものを
これらの思想では、
 
「神」と呼びます。
 
 
さて。「神」が分離する世界をつくり、魂に探究させるようになったとき、
 
神レベルから次元を下げる役割を担ったのが、ルシファー、もしくはルシフェル
だと言われています。
 
もともと神の使いですし、そもそもこの世界を創ったのはルシファーですから、
悪いものであるはずがありません。
 
 
ただね。
 
「神よりも、ルシファーを崇拝する」というのが、一般的には、悪魔教なのですね。
 
一般的にはですよ。
 
悪魔崇拝の、どこが間違っているかというと、「モノから生命が生まれる」という思想なのね。
 
モノから生命は生まれないわけですよ。
 
逆でありまして、意識がモノをつくりだしたのです。
 
 
いつわりとは、「モノから生命が生まれるという思想」であり、
 
真実とは、「意識がモノを生み出した」ということです。
 
 
 
シュタイナーも、ルシフェルとアーリマンに、人間をつまづかせるものを
見ていたのですよね。
 
 
神とルシフェルを、どちらを優先するかで、悪魔教かどうか決まっているわけです。
 
あくまでも、悪魔教かどうかは、順番と優先順位の問題なのです。
 
 
神を大切にする前に、ルシファーを崇拝してしまったら、いつわりの
世界に導かれることは、歴史が証明していると言えると思います。
 
もう一度書きますが、
 
いつわりとは、生命がモノから生み出されるという発想。
 
真実とは、生命は意識であり、モノより先にあったということです。
 
 
ということは・・賢そうに見える養老タケシ先生の御意見は、あまり
聞かないほうがいいということになるのかもしれませんが・・・。
 
 
 
宇宙人たちは、かなり高次元な宇宙人でも、みな、神を信じています。
 
高次元なのに神を信じているところを見ると、
 
18世紀~20世紀の、地球のインテリは、驚くでしょうね。
 
 
「神を信じるのはバカの証拠」と、18世紀くらいから地球のインテリ層では言われて
いたのですが、
 
それで現在も、「神」という言葉に、反発、アレルギー、反抗、嫌悪を
いだく人々もいるようですね。
 
ロックンロール文化で育ち、ロックンロールは反抗だ、
神は宗教という権威だから、神には反発するのだと、言ってる方が、
私のブログ読者にも、いらっしゃると思います。
その方、お元気かしら。
 
 
地球の古い宗教は、これからすたれていくと思いますが、
 
「神」の概念は、宗教的権威抜きに、残ると思います。
 
「神」とは本源という意味、創造性という意味でありまして、
 
善悪を裁くようなものではないのです。
 
むしろ、神は、善悪を全く裁かないと言っていいかもしれません。
 
 
人間が考える善いものも、悪いものも、ひとしく愛するのが神なので。
 
そう考えると、悪くなったほうが得ではないかと思う人もいると思いますが(笑)
 
全て存在は、自分が投げかけたものが、自分に還ってくるようになっています。
 
 
いつわりを投げかけたら、いつわりが還ってきますので。
 
私は、悪魔崇拝と、ルシフェル崇拝は、オススメはしません。
 
止めることもできませんが・・・。 
 
 
 
神は、音として「カミ」でなくてもいいのかもしれませんがも
 
「カミ」という音になったことにも、意味があるのだと思います。 
 
 
 
「神」という概念は、地球上にあった、古い宗教がなくなっても、残ると思います。
 
そもそも「最初の本源」「生命の本源」「意識の本源」という意味ですから、
 
消すことが無意味な概念です。
 
わたしたちが存在していることは、確かなのですから。
 
 
「神よりもルシファーを崇拝する」のはどこがおかしいかというと。
 
生命が来ているのは、あくまでも「神」のほうからだから。
 
神を愛するとは、宗教を愛するということではなく、
 
生命を愛するということです。
 
 
この原則がゆるがないので、私はルシファー崇拝になったことはありません。
 
 
ルシファーは、この宇宙、この世界、この世を創っただけのことで、
 
生命を生み出すことは、していません。
 
 
実は、宇宙や、世界や、この世が生み出される前から、生命だけはあったわけです。
 
生命とは、意識のことだからです。
そこらへんが、ダーウィン進化論を私が逆だと思う理由です。
 
 
「我思うゆえに、我あり」というデカルトの言葉には、意外となじむかもしれませんが。
 
 
 
「神」のほうから生命が来ることがわかり、ルシファーがもつ善い意味
 
・・・つまり、「経験して、知るための世界をつくる」ということを大切にするのは
いいかもしれないと思います。
 
 
しかし、神が見えなくなるほどに、私がルシファーを崇拝することは、今後も、
ないと思います。
 
 
こういったことで一番大切なのは、「順番」と「優先順位」だと思っています。
 
 
モノから生命が生み出されたという話、私はノレないわけです・・。
 
乗りたいかたは、どうぞ・・・。
 
そして、さようなら。
 
自由意志は尊重されるべきですから。
 
 

サナト・クマラについて。

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サナト・クマラについて疑問を投げかけたところ、
 
ajaさんから、詳細なノートをいただきました。
ajaさん、ありがとうございます。
 
ajaさんのノートは、wikiと、70歳のお友達が知っていたことを合わせたものだそうですが、私が知っている範囲のことを、記事にします。
 
わたしが聞いていることと、体験したことと、私の意見を組み合わせて書きます。
 
****
 
まず、私の体験から。
 
私はよく京都に行くのですが、2年前の5月に京都の鞍馬寺に行くことを
決めた時、職業霊能者の女友達から、連絡がありました。
驚いたことに、私とほぼ同じくらいに(2日違いでした)鞍馬山に行くことにしたと
言うので、彼女のスケジュールに合わせることにしました。
 
鞍馬山に登り、サナト・クマラが降りたという魔王殿のあたりに
いたら、私にお告げがありました。
 
そのお告げをしたのが、サナト・クマラかどうかはわかりませんが、
サナト・クマラに属する霊だと思います。
 
そのお告げのおかげで、10代から悩んでいた病気が治ってしまいました。
 
病気を治してもらったからということもあるのですが、
サナト・クマラについて、「悪」というイメージはないです。
 
かと言って、純粋な神というのとも違う感じ。
 
」でも「悪魔」でもないもの、サナト・クマラは、宇宙人だと思います。
 
 
サナト・クマラは金星から来た存在だと言います。
金星には、ルシファーと呼ばれた存在がいると言われていますが、
それはサナト・クマラのことでしょう。
 
しかし、ルシファーは堕天使で霊的存在。
サナト・クマラは、かなり高次元ではあっても、宇宙人だと思いますので、
ルシファーではないと思います。
 
場所によっては、サナト・クマラは、ルシファーだと言われているようですが、
後に述べるような理由によって、サナト・クマラは、
シリウス系宇宙人で、宇宙連合の司令官とも言われる
アシュタールと同一なのかもしれないと思うのです。
 
アシュタールと同一だとしたら、「キリスト教の時代」には、
アストロスという悪魔と考えられていた可能性はありますが、
ルシファーではないのではないかと思います。
 
ちなみに、ルシファーは、その後、ルシエルという存在にも分かれたとも言われていますね。
 
エルという名前がついたものは、美形の宇宙人が多いそうですが・・。
アシュタールも、美形の男性として顕れることが多いので・・・。
ちょっとわかりませんが・・・。
 
*****
 
アシュタールと、サナト・クマラが同一である可能性。
 
宇宙人と言っても、高次元な存在は、地球人から見れば
要するに「霊的存在」です。肉眼で見えるわけではないですから。
 
現在、霊的存在である、アシュタールに話しかけられる人間が増えていますが、
アシュタールに話しかけられた地球人のうち、日本人は、だいたい、
京都府の鞍馬山と、熊本県の幣立神宮に行かされます。
 
人によっては、理由もわからないまま、行かされます。
 
この二か所は、アシュタールが古代に降り立ったところであるとのことです。
アシュタールのエネルギーとつなげようとしているのでしょう。
 
最近、アシュタールの国際的チャネラーのアメリカ人が来日して、
質問する機会がありました。チャネリングされたアシュタールに
私は
「アシュタールと、サナト・クマラは同一ですか」と聞いてみたのです。
 
答えは、イエスでした。
 
話の筋が通っており、
「アシュタールと関係ある人が、理由がわからないまま、
幣立神宮と、鞍馬山に行かされる」現象は
 
私も知っていますので、特に疑問をはさむところはありません。
 
私は・・ただ・・なかなか信じないところがあり、「何割信じた」というような
割合でしか信じないタイプなので、
 
「おおむね、そうなのであろう」と思っているということです。
 
*****
 
私が今まで見聞きした範囲では、
 
サナト・クマラも、アシュタールも、人類に智恵を授けるところがありますが、
何か悪いことをしている兆候が見えません。
 
ですから、悪魔ではないと思います。
 
どちらかというと、人間側にその気があれば、人間がシアワセになり、
パワフルになり、より覚醒して創造的になることを助けてくれる
存在のようです。
 
古代には、神と呼ばれてしまったでしょうが、現代人の私としては、
宇宙人と呼びたいと思います。
 
古代とは逆に、キリスト教の時代には、「イエス・キリストの霊」と呼ばれたものに
属さない高次元のものは、すべて「悪魔」とされてしまっていました。
そういう意味では、サナト・クマラも、アシュタールも、悪魔とされたこともあった
かもしれません。
 
さて。
私は、宇宙人に関しては、「地球人とまったく同じ基準」で、善悪を判別しています。
 
 
私が善人、もしくは善宇宙人と見なすのは
 
「人々の自由意志を尊重し、
人々が恐怖から解放されて愛を選ぶことを喜ぶ存在。
人々一人ひとりの創造性を尊重し、一人ひとりが、本質的には神であることを
表現する、正直な存在」です。
 
一方、私が、私の主にいる次元で良くない人、もしくは良くない宇宙人と見なすのは
 
「人々の自由意志を許さないようにする。
人々が恐怖するように仕向け、人々が愛から離れるように仕向ける。
人々に自分は無力であると信じさせようとし、
人間をできるだけ、家畜化して、管理・支配しようとする、
・・・しかも、ウソをついている存在」です。
 
わたしは最近、地球人を判断する基準と、宇宙人を判断する基準を同じにしたのです。
 
サナト・クマラも、アシュタールも、現時点では・・「善い宇宙人」に見えます。
 
*****
 
サナト・クマラも、アシュタールも、現代人である私たちにとっては
「神」ではありません。かといって、悪魔でもないというのが、
最近の私の意見です。
 
*****
 
もしも善い存在だとしたら。
 
サナト・クマラ、もしくはアシュタールが、なぜ、
 
地球人を助けているのか、そこを考えてしまいます。
 
 
それには、銀河の歴史を考える必要があると思います。
 
多くのチャネラーが思い出している太古の銀河では。
 
シリウス人と、プレアデス人は、地球人が、彼らと同じように
「目覚めた種族」になることを望んだのですね。
 
シリウス人は、遺伝子工学の天才なので、地球人に、「目覚めの遺伝子コード」
まで埋め込んでしまいました。
 
もともと、地球は、他の星人たちによって、遺伝子の実験場になっていて、
地球人を家畜化しようとした星人もいました。
地球人は、遺伝子実験を経て生み出されたものです。
だから、地球人の遺伝子をいじったのは、シリウス人だけではないのですが。
 
とにかく、シリウス人と、プレアデス人は、地球人目覚めさせ計画に
手を染めたのですね。
 
地球人に犠牲をはらって尽くすことで、シリウス人とプレアデス人の
進化が早くなるというメリットがありますが。
 
一方、地球人を援助するのか、地球人に対する介入なのか、ということが
常に問題になっていて、「援助」のほうが上等とされ、
「介入」のほうは、できるだけ避けようということになっています。
 
だから・・シリウス人やプレアデス人は、やたらと親切に、
地球人をサポートしようと待っているのですが、
こちらから呼びかけない限り、答えてくれないようになっています。
 
信じていれば、いろいろ助けてくれるようです。
 
*****
 
Wikipedia的に書くと。
 
サナト・クマラは、もともと、ヒンズー教の、ウパニシャッドに出てくる存在。
 
インドものばかり紹介していた、神智学会・創始者ブラヴァツキーの本に
軽く触れられ、詳細は、かなりのちの時代、ほとんど最近、
アリス・ベイリーと、ベンジャミン・クレームによって説明されました。
 
私は、ブラヴァツキーは、政治的意図をもつ神秘家だと思いますし、
ベイリークレームも、ブラヴァツキーと同様の政治的意図を受け継ぎ、
クレームはニセの、ミロクを立てて、権力を集めることばかり考えているように見えるので、このあたりの人が語る神秘情報は、あまり信用しません。
 
ブラヴァツキーに影響を受けたと言われる
京都の鞍馬寺の先代当主によって、昭和の時代に、
鞍馬山は何万年前にサナト・クマラが来た場所だと、正式に
宣伝されるようになったと言われていますが。
 
だとすると、ブラヴァツキーの著書にあったのは、これから書く
ボブ・フィックス・・・ビートルズのグルだったマハリシ・マヘシ・ヨギの直弟子の
ボブ・フィックスの本に書いてあるのと、同じような存在だったのでしょうか?
 
*****
 
スピリチュアル有名人が、サナト・クマラをどう言っているかを書きます。
 
 
 
神智学会と関係あるのかどうかよくわからないのですが、
 
ビートルズの瞑想の先生だった、マハリシ・マヘーシュ・ヨギという
人がいて、ハーバードで物理学の学位をとってから、瞑想家になりました。
「TM瞑想」というものを広め、
一種のフランチャイズ・チェーンで瞑想教室を開く方式。
 
ビートルズも、ミック・ジャガーも、ミア・ファローも、
広告塔になっちゃったわけです。
しかし、ジョン・レノンによってスキャンダルを流されたりもしたマハリシです。
 
マハリシの直弟子、ビートルズと同年代のヨーロッパ系アメリカ人の瞑想家に
 
ボブ・フィックスという人がいて、1980年代にはもう、「アセンション」に
ついて語り始めていました。
 
この人が2000年になるより前に出した
日本語題「時を超える聖伝説」
(いま明かされる人類の魂の歴史/創世・レムリア・アトランティス・新しい次元へ)
 
という本があり、ここに大々的に、サナト・クマラと日本の京都の関係が出てきます。
 
太古に、サナト・クマラが日本の京都の鞍馬山に降り立ったことが、
人類の重要なエポックだというのです。
 
この本の内容と、神智学会の語ったものと、どのくらい近いのか、私には
わかりません。しかし、ボブ・フィックスと、同じようなチャネリングを行った人が
私の身近にいます。
 
****
 
私が尊敬する瞑想の先生の一人(女性)が、若いころ、イエス・キリストを名乗る
霊にひと月毎日来訪され、自動書記で様々なことを書かされたといいます。
 
その内容は・・後で観たら、ボブ・フィックスの書いたものと同じだったので、
ビックリしたといいます。
 
その先生は、ウソをつくような人ではありませんし、
私に対し、ウソをつくシチュエーションでもありませんでした。
 
イエス・キリストと名乗る霊は、比較的簡単に、たくさんの人を訪れて
いることを知っていて、愛の行いをし、悪いことはしないのは知っているので、
彼女の言うことは、信用できます。
 
彼女とボブ・フィックスが、同じ情報源をチャネリングしていたのは、
私の眼から見て、間違いなさそうだと思います。
 
*****
 
神智学会と関係ないと思われる、身近な瞑想の先生が、
ボブ・フィックスと同じ内容をチャネリングしているとしたら。
 
ボブ・フィックスのチャネリングも、神智学会の「政治的思惑」と関係ないもので
ある可能性が高いと思っています。
 
*****
 
サナト・クマラと、アシュタールについて、人々がチャネリングしている内容は、
驚くほど似ているので、何か意味はあると思います。
 
そして、サナト・クマラと、アシュタールは、
 
神でも悪魔でもない、
 
宇宙人である・・というのが、私の意見です。

神とルシファーについての、ボブ・フィックス(マーリン?)の意見。

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昼間、ボブ・フィックスについて書いたので、
 
久しぶりに、「時を超える聖伝説」を読んでみました。
 
この本に書いてあることが本当かどうかはわかりませんが、
 
わたしの瞑想の先生は、同じようなことをチャネリングしたと言ってました。
 
 
ボブ・フィックスを通した魔法使いマーリンの意見を書いてみます。
 
 
本当かどうかは知りませんよ。
 
こういう形而上学があるというだけの話です。
 
 
*****
 
 
マーリンによると・・人間には、
 
もともと神のスパークが入った、神が創造した人間と、
 
ルシファーが創造した人間がいるとのこと。
 
それが、この世の重大な秘密だったというのです。
 
???? 
 
 
本当かどうかは知りませんけど。
 
 
わたしは、どうしてもルシファー崇拝になれないのですが、
 
逆に、どうしてもルシファー崇拝をせずにはいられない人もいるわけですよね。
 
その説明にはなります。
 
 
この形而上学的意見が本当かどうか知りませんが、
 
現実を見る限り、「そうかもしれない」とは言えます(笑)。
 
 
わたしはケルトが大好きなのですが、
 
アーサー王伝説には、とても心惹かれるものがあって、
 
そのせいか、モンティ・パイソンで一番好きな映画は
 
「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」です。
 
 
アーサー王伝説の中で、魔法使いマーリンには、とても惹かれるものを感じます。
 
 
BSで少し前に、魔法使いマーリンを主役にしたドラマをやってて、
 
それなりに楽しんでみていました。
 
 
魔法使いマーリンは、存在したのかどうかわからないと、
大学で教える歴史では言われていますが、
 
とりあえず、人々の心の中では生きているようです。
 
*****
 
ボブ・フィックスがチャネルしていた、マーリンによると
 
神が創った人間と、ルシファーがつくった人間がいることで、
 
オリオン星では、かなり危険なことが起きたようです。
 
それは、現在の地球にも似ているというのですが・・・。
 
 
ルシファーは、善悪の観念を創りだし、銀河の星人たちに、影響を与えたようです。
 
 
神とつながった人は、幸いな人。それはいつの世も変わりありません。
 
ルシファーとつながった人々は、生まれつき、
ルシファーに、つながっているのかもしれませんね。
 
でも・・私は、ルシファー崇拝者のみなさんが、いろんな意味で、苦手なのです。
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