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正統・竹内文書について。【①神代文字と、竹内家のメモについて。】

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竹さんのところで、竹内文書についての記事を読みました。
 
竹内文書というと、竹内家の養子であったといわれる竹内巨磨が
世に出したものが有名ですが、
 
あれは本物の竹内文書(正統・竹内文書)の一部抜粋のようなもので、
実は、世の中に出たことがない「正統竹内文書」というものが存在するらしいです。
 
ウィキペディアなどには竹内文書は「一般には偽書と信じられている」みたいなことが書いてありましたが、
世の中に出たことがない・・誰も全体像を観たことがないものでも、偽書かどうか論じられるんですね。
 
そもそも偽書って何?古事記と日本書紀は偽書ではないの?
 
あらゆる情報は、「誰がソースか」で情報の信ぴょう性が測定されますが、
「誰」を信じるか、「何」を基本として信じるかは、御自由ということでしょうね。
 
わたしの感覚としては・・・正統・竹内文書は、まずは
「本当に存在しているのか、存在しているとしたら、どんな内容なのか」ということだと思います。
 
それと・・・竹内巨磨が出した竹内文書というのは、当時、竹内家にあった
「メモ」(覚え書き)が流出したのではないかと思っています。
 
この記事で後ほど引用しますが、
 
竹内家の家長は、1500年以上の間、口伝してきて、
一子相伝で古代史の暗記をしなくてはならないそうなのですが、
 
現実には暗記しきれなくて、メモを書くらしいのですね。
 
そういうメモが流出したのではないかと思っています。
 
 
わたしは「正統竹内文書の日本史 「超」アンダーグラウンド」
 
というシリーズの本を、一巻から、三巻まで、
合計三冊持っています。昨年末に買ったものです。
 
 
竹内家当主、竹内睦泰氏、
超常に詳しい秋山真人氏、
超常研究家の布施泰和氏の三者の共著になっています。
 
どうしてだか・・私の本棚には本日、一巻が見当たりませんが(笑)、おそらく明日にでも、どこかから出てくるでしょう。
手元にある分だけで、「正統竹内文書とはどんなものか」書いてみます。
 
ウィキペディアの「竹内文書」の世界観とは根本的に違う部分を
感じていただければ、幸いです。
 
竹内家当主は、日本の古代史を、1500年以上にわたり、口伝継承しているとのこと。
信じるか信じないかは別として、竹内家にはそう伝わっているらしいです。
 
文中にある、武内宿禰(たけうちすくね)とは、竹内家当主が代々引き継ぐ、名前です。
 
 
***以下、竹内家当主、竹内睦泰氏による、「正統竹内文書」の説明、特に神代文字についての説明です。原文のまま載せます。***
 
 
 
正直言って、お題の神代文字と宇宙文字だが、宇宙文字って何?
 
基本的に宇宙空間にいた神々は、テレパシーで語り合っている。ということで、口伝自体はあるのだが、これについては、あとで語ろう。
 
 まず、神代文字について。
 
正統竹内文書は、かなりの種類の文字を文章化している。
本来は、一子相伝の口伝なので、本人が暗記しなくてはいけないのだが、正直言おう。百種類近くの文字を暗記することはできない。ということで、長老たちには内緒で、歴代の武内宿禰(たけうちのすくね)は、それを筆写し、書いていた。
それが一部から散逸し、膨大な量になったと思われる。
 
 また【カタカムナ】のような、点や線で書く特殊な文字もある。一字であるが、二音や三音を表す、ということもある。しかも、口伝によれば、レオナルド・ダ・ヴィンチのような「鏡文字」のように、逆転したり、ずらしたりして意味を伝える文字もある。普通の象形文字とか、表意文字とは違うのだ。
 
 この存在について、存在するのか否かという論争に私は参加するつもりはない。
ただ、神代文字は正統竹内文書においては、「神字」と書き、それを【カムナ】と読んだ。
それが漢字となり、カタカナとなった。
 
 つまり、中国の漢字以前の文字のことをわが国は、【カナ】と呼んでいた。
本来は日本にあった文字が、シュメール(スメル)に渡り、世界各地に伝播し、そして日本に戻ってくる。その結果、象形文字や表音文字のようなものが、神代文字によく見られる。
 
 スサノオノミコトに従い、朝鮮に渡った息子のイソタケルノミコトは、当時大きく古代より変形した文字を日本にももたらした。しかし、その元になったのは、あくまでも日本の神代文字である。
 
***日本に移住した百済・高句麗の王の末裔 
 
 一部の神代文字がハングル文字に似ているという批判があるが、それは違う。識字率が低かった朝鮮人に、文字を教えてあげようとする日本軍の配慮もあった。ハングルが神代文字ではなく、神代文字がハングルになったのだ。今のハングルを作ったのは朝鮮人と言われているが、少なくとも普及させたのは、日本軍である。
 
 日本は西暦465年に独自の年号、【大化】を作った。このとき、朝鮮半島の国々は、中国の年号をそのまま使用している。
次に701年に、日本は独自の法律『大宝律令』を作った。このとき朝鮮半島の人々は、中国の法律をそのまま採用している。
そして、702年に、わが国は「日本」という国号を定めた。朝鮮の人々は、実は中国にお伺いを立てて名前をつけてもらっていた。
 
 朝鮮半島が真に独立したのは、日本が日清戦争で勝利し、1905年に下関条約を締結し、朝鮮半島を独立させろと、中国(当時・清国)に迫ったからである。つまり、朝鮮民族が、中国から独立できたのは、日本のおかげなのである。
 
 古墳時代、中国や百済・高句麗の王の末裔が日本へ移動してきた。
 
 百済・高句麗は漢字を使用していた。百済王は大阪府枚方市の百済王神社にいる。子孫は枚方市長にまでなっている。
 
 高句麗王は、埼玉県高麗(こま)郡の首長として、高句麗一族を支配した。
無論、高麗(こま)神社がある。
 
 つまり、中国初代皇帝の末裔も、朝鮮の独立国家になったときの末裔も、全部日本にいるのだ。ハングルを日本軍が教えたのは、そこには漢字を使用していた高句麗・百済民族がいなかったからである。
 
高句麗・百済民族は日本にいたのである。
 
 
***神代文字はきりがないほどたくさんある。 
 
 話を神代文字に戻そう。
 
 神代文字についてまともに書くと、きりがないくらい多くある。
その中で大きな文字が三つある。
 
一つは、【アヒル文字】と【アヒルクサ文字】である。
 
次に【イムベ文字】と【アメヨシネ文字】である。
 
三つ目として、【豊国(とよくに)文字】が誕生し、後、ひらがな、カタカナが登場する。
 
 『古語拾遺』にある、忌部広成(いんべひろなり)は、口伝を相承している。彼は
『日文伝』の中の「神代象字伝」のなかで、
 
「斎部・橘両家之口伝極秘成。他見許さず」と記している。
 
さらに護符を出し、「斎卜部両家の秘符也。其の職を成すといへども、秘事を伝へ難し。これ、面授口決の大事也。能く授け、能く学び、能く慎みて、これを受けよ」と言っている。
 
 また、『斎部家極秘神名』において十字を伝えている。無論、極秘なので記されていない。「ロイ」と書かれているだけである。「ロイ」---つまり、口伝である。
 
 義解(ぎげ)には、「天太玉命神作なり。今なお、忌部宿禰等が伝承する」とある。
しかしその子孫、忌部正道(まさみち)は、神代巻口訣で、「神代の文字は象形なり。応神天皇以降、漢字をもって、それを使用することにした」とある。
 
 実は、広成の子孫である正道は、先祖の広成の神代文字否定説を覆したのだ。
正道は、南朝・後村上天皇の時代の人である。
 
 実際、『日本書紀』の欽明天皇条に、「多に古字あり。」という一句がある。天武朝においては、新しい字を作らせた、となっている。つまり、『日本書紀』の中にも、神代文字の存在を推測できるのである。
 
 そのなかで一番使われていたものが、アヒルクサ文字であろう。古代の神符(護符)の中に書かれていたのは、トップがアヒルクサ文字、次にアヒル文字である。
 
 蝦夷地で使われた文字は、アイノ文字といわれた。また、『秀真伝(ほつまつたえ)』のホツマ文字があるが、正統竹内文書には、少し形を変えて伝わっている。
 
 また、アヒル文字の形態でアワ文字というのも伝わっている。『九鬼(くかみ)文書』では、カスガ文字というものを使っている。これは何種類もある。さらに正統九鬼文書といえる、物部文書には、モノノベ文字が伝わっている。
 
 もう、言い出したらきりがない。
 
 そして途中、神代ではなく中世に作られたような文字もある。南朝文字である。これは、南朝の最高幹部のみが使用し、読解できる文字であった。これは、アヒルクサ文字に似ていた。
このアヒルクサ文字というのは、フィリピンに残る古代文字と、同系であると思われる。ということは、海洋系から日本に戻ってきた、ヤマト族の古字ではないだろうか。
 
 次に、豊国文字は、エジプトの古代の文字にかなり似ている。ということは、時代をずらして移動した民族がいたと思われる。
 
***神代にはテレパシーによって意思疎通していた。
 
神代文字については、中世の南朝古字のような創作文字もある。このようなものは、近世にも出回ったのだが、明らかに近代に作られたという文字もある。別に否定するものではない。 
岡本天明の『日月神示』の文字である。
 
 こちらは、自動書記である。エマヌエル・スウェーデンボルグ(1688~1772年。スウェーデンの科学者・神秘主義思想家 )の、数字的な表現に似ている。ほかにも、わざと裏面を白紙にし、すかして読め、という部分もある。
 
 つまり、神代文字は、あったのか、なかったのか。というと、私は、存在もしているし、創作されたものもあったと考えている。両方である。
 
 ただ、神代は、現在より語彙が少なく、現在、発音できないような発音をしていた可能性が高いと思う。
 
 では、意思の疎通はどうしたのか。それは、今風の言葉で言えば、テレパシーのようなものであったと思う。変わった話だが、これが正統竹内文書に書かれている、神代文字の内容だ。
 
 そして、もうひとついただいたお題のひとつの宇宙文字であるが、これは、羽目をはずさせていただこう。
 
 つまり、今まで言った通り、テレパシーで話し合っていたので、文字はほとんどなかったはずだ。あくまでも暗号のように、ウルトラマン初期シリーズの「ウルトラサイン」のようなものであろう。
 
 これは現在でも秘密結社ではよく使われる方法であるが、たとえば、中国のある秘密結社では、三つ杯を並べて、イエスかノーかを問う。イエスのときは、真ん中を取り、ノーのときは死ぬことになる。
 
 フリーメーソンでも、お互いに仲間ですよ、という手のサインがある。たとえば、日本の戦国時代の忍者にも、忍者のみに通じる暗号があった。
 
 つまり、文字は形に残るので、危険なのだ。証拠となってしまう。だから、本当に大切なことは、文字にせずに、言葉で伝える。特に、秘密は。それが、秘授口伝である。
 
以上、竹内家当主、竹内睦泰さんの言葉ですが、
 
以下は、武内宿禰こと、竹内睦泰さんが語る、「武内宿禰のみが知る超古代・神代文字の歴史」です。
 
Q:正統竹内家に伝わる神代文字の歴史を教えてください。
 
---数万年前の段階で、最雲文笹雲文字(さいうんもんささくももじ)があります。
これを変化させたものが、一万年前にできたアメノマガタマ文字です。
そして文字は二つに割れました。
 
大伴氏系の、ミチツオミ文字と、
中臣氏系のアマツコヤネ文字です。(これがハングルの元)。
 
 アメノマガタマ文字は、忌部氏系のアメノフトタマ文字に呼び名が変わりました。笹雲文字と勾玉文字は、正統竹内文書において、極秘口伝とされており、武内宿禰の称号を持つものしか、継承できません。
 
 正確には、この三種類の文字(ミチツオミ文字、アマツコヤネ文字、アメノマガタマ文字)は、正統竹内文書以外に、大中臣文書にもあったのです。春日文字と呼ばれました。しかし、大中臣家は断絶し、正統竹内家のみに伝わっております。なぜならば、その文字の一つ一つの意味を和歌の古今伝授のように口伝で伝えているのですから、継承者は武内宿禰家のみなのです。
 
Q:最古の神代文字「最雲文笹雲文字」とはどのような文字でしょうか。数万年前にその文字を使っていたという人たちは、どこにいた人たちですか?
 
----文字の詳細は語れませんが、バンゲア大陸です。また、テレパシーで会話していました。文字数は88です。
 
Q:一万年前に笹雲文字を変化させてアメノマガタマ文字を使っていた人たちは、どのような人たちですか。
 
----使っていたのは、大きく分けると3つあります。大和族、出雲族、ユダヤ族。しかし本来は、この文字は日本の原住民であるサンカの文字です。
 
Q:縄文は何文字でしょうか。
 
----縄文は縄文字といいます。読める人には読めます。昔は単語が少なかったので、土器の中身のことが書いてありました。口伝のほうが文字より重要でした。現在と違うのです。 
 
 

お久しぶりです!!

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みなさま、お元気でしょうか?
 
その後、おかわりありませんか?
 
パソコンが壊れている間、ブログはお休みしていました。
 
 
パソコンが直ってからも・・
どうも旅行してから、「ブログ向きの精神」で在ることが少なくなって
きまして・・。
 
予測としては、10月18日くらいまでは、たいした記事は書かないと
思いますが、
 
本日は皆さまに久しぶりに御挨拶させていただき、
 
いただいたコメントに少しずつ返信を書こうと思います。

2014年、素晴らしい世界へ。

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皆さま、あけましておめでとうございます。
 
これから世界が、地球が、どうなるかということについては、
いろいろな御意見があると思うのですが、
 
わたしの周囲では、世界はますます美しく、
 
何をするにも、容易に現実化できるようになると思います。
 
 
いろんなことを言う人がいます。
 
これから世界は困難が増すという人もいるし、
 
地球の波動が変わって、波動が違う人はその世界にいられなくなるという人もいます。
 
 
わたしはなるべく楽な、楽しい、ハッピーな、明るい世界を
考えようと思っています。
 
少なくとも私の行く地球では(←パラレル地球発想)
 
すべてが、ラクで楽しいほうに行くと思います。
 
 
みなさま、本年もよろしくお願いいたします♪
 
 

2014年。正統・竹内家の言い伝え、(日本や世界の)歴史大胆推理、「妄想ではない宇宙人ばなし」をテーマにしようかな。

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2014年はじめ。
わたしのヤフーブログは、ある意味、煮詰まっています(笑)。
 
わたしは、ヤフーブログでは
さまざまな主義の方と、おつきあいさせていただいていますが、
 
ヤフーブログ以外の世界では、もう少し、わたしの考えと似た人々と
つきあっているかもしれません・・・。
 
ヤフーブログは、異なった種類の教養の方々に出会える場です。
そこが面白いのですが、ブログのテーマ選びに、多少の制限を感じます。
 
しばらくは
 
「正統・竹内家の言い伝え」
 
「日本の歴史、大胆推理」
 
「妄想ではない、宇宙人の話」
 
 
・・・などをテーマに、
 
多少の音楽ネタ、映画ネタなど織り交ぜて、進んでいきたいと
思っています。
 
それと・・私がよく書く「独り言つぶやき・記事」(笑)。
 
よろしくお願いいたします。
 
m(_ _)m
 

わたしたち皆が、神である。

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わたしたち、ふつうの地球人のひとりびとりが、
 
神なんだと言っていい、時代が来ていると思います。
 
 
権力者とか、特別に優秀な人が神に見えた時代が長かったけど
錯覚だったんだと思う。
 
わたしたち一人一人が、地球や、宇宙や、自分自身の神なんだと
思います。
 
わたしたちのイマジネーションで、一つの宇宙が生まれるほど、
わたしたちは神なんだと思います。
 
もちろん・・この考え方だと、計算上の、宇宙の数は物凄いことになるんですが(笑)。
宇宙が膨張するのは、当たり前という感じでしょうか^^
 
そして・・・「自分だけ神」と、おっしゃる方は、わたしは
けっこう苦手かも。
 
例えば大川○法さん。
久しぶりにチェックしてみましたが。
自分をエ○・カンターレという、宇宙最高の神だと言ってます。
 
大川○法さんの本は・・ずいぶん前に、友だちから「太陽の法」を
渡されて、読んですぐ「これは、デタラメ」と思いました。
 
五反田の街角で、麻原彰晃氏の超能力写真を最初に「チラ」と見たときも、「これはニセモノ」と思いました。
 
自分だけが神になりたい人、自分だけが真理を語りたい人は、
どこかオカシナことを言うと思う。
 
「神であること」は独占できないことなのです。
 
 
 
 
わたしたち地球人全員が、神である・・という形而上学には
整合性があります。
 
私たちの想念がガイア(地球の魂)や、宇宙の魂とともに、
現実を創っていると思います。
 
わたしたちが完全に一人で作っているのではなく・・・
 
共同創造ですが。
 
 
それでも・・・神であることを喜び、
 
神どうしで、協働して、楽しもうではありませんか。
 
(^^)/
 
 

日本人は、「大和と出雲と秦氏の融合の産物」という、画期的な主張。

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正統・竹内家当主と、秋山真人と、布施泰和さんの話はおもしろいです。
 
以下に、三人が対談した家紋の話を挙げておきますが、
この話のポイントは、
古代日本人の成り立ちについての、画期的な意見ということです。
 
つまり、古代の日本は、大和族、出雲族、秦氏が、和合・融合してできあがった
という意見であることです。
 
奈良にある三輪山・大和三山は、3部族の和合・融合の象徴とのことで、
 
そうなると、大和朝廷の大王の子孫とされる天皇家もまた、三部族の血が脈々と流れているという可能性が高くなります。
 
 
***以下、三つ葉紋と、古代日本の民族について、
正統・竹内家に伝わる言い伝えと、
竹内家当主、および秋山真人さんの共通の見解をしるします。
 
***
 
竹内家当主は、名刺に三つ葉紋を使っている。
(正統・竹内家では「四つ割菊に葉付き菊」を使っているが、
なぜ、三つ葉紋も使うのかは、この記事の最後に記します。)
 
重要なポイントは、
三つ葉紋は、「大和と出雲と秦を表す」。
 
つまり、竹内家の三つ葉紋は、大和族、出雲族、ユダヤの血統を表す。(佐伯好郎の学説と同じく、竹内家の言い伝えでも、秦はユダヤとのこと。)
 
次のポイントは
「大和三山や三輪山は、古代日本を形成した三民族、
すなわち大和族、出雲族、ユダヤの和合の象徴」。
 
竹内家当主が中心となる古神道において、
そこ、すなわち山の辺の道を歩くことが、
「大和神行」(やまとしんぎょう)であるという。
 
 
以下、関連事項として・・。「三つ葉」と関連したことが、対談で語られています。
 
徳川家康は、出自を隠すために、
下鴨神社から神紋をもらった。
それが三つ葉葵。
家康の本名は、世良田二郎三郎元信。
(せらだじろうさぶろうもとのぶ)
 
大本教教組の出口王仁三郎は、
霊界に行った話をよくしていたが、
最初に霊界で向こうの神様から「三つ葉殿」と呼ばれる。
 
王仁三郎によると「竹内巨麿の著した茨城の竹内文書は、
私が神様から聞いたのとは違っている」という。
 
霊能者の八島義郎(1914~2010)が最初に霊的経験をしたとき、
菊の三つ葉紋を見たという。
 
(以上、正統竹内文書の日本史より引用)
 
***最後に、三つ葉紋を使う理由を、竹内家当主の言葉から、
抜き書きしておきます。
 
正統竹内家(歴代・武内宿禰)の家紋である
「四つ割菊に葉付き」も私はもっています。
 
しかし私は南朝小倉宮家でもありますから、
名刺には小倉宮の「三追菊に十六弁菊花紋」を使用しています。
なぜならそれが後南朝の摂政宮という証だからです。
 
 紋章学で重要なことは、表紋と裏紋、そして替紋、女紋があることです。たとえば私が天皇陛下に会うときは「四つ割菊に葉付き菊」はつけません。わたしは普段その紋章の狩衣を着ますが、そのときは着ません。「五七桐」にします。
従三位以上の公卿は、祭事の時大礼服(装束、桐の紋章)を着ますので。
 普通の竹内家の紋は公家が「笹竜胆(ささりんどう)」で、武家は
「剣片喰(けんかたばみ)」です。ですから、現在でも、公家・子爵家の
竹内家の紋章は「笹竜胆」です。
 
 私は公家・武家・神主の歴史を持った家ですから、「笹竜胆」「剣片喰」は替紋です。
プラス正統竹内家(武内宿禰家)の「四つ割菊に葉付き菊」と、南朝小倉宮家「三追菊に十六弁菊花紋」を持っています。
 
つまり、私は5種類の紋章を使い分けているのです。複雑でしょう(笑)。
でも、江戸時代ではふつうですよ。相手の藩主と同じ紋であったら、別の替紋をつけますから。
 
 また、竹内家は十手を持つとき必ず紫の房をつけます。
これは後水尾天皇と霊元天皇も勅令で「竹内流」にのみ、認めました。ですから、江戸町奉行が持つ十手は普通赤い房ですが、竹内流は勅許があるので与力同心でも紫の房をつけます。
 
以上、「正統竹内文書の日本史」より引用しました。
 
 
 
 
 
 

アマテラス=ニギハヤヒの性別と実態。ニギハヤヒは、派手な軍艦、もしくは宇宙船で来た可能性があるとのこと。さらに、日本書紀を書いた人物について。

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正統・竹内家当主が言うことが面白いので、
連続して記事にしようと思いますが、
 
わたしがそのまま信じてる・・というわけでもないのです。
 
ただ・・現在、古事記/日本書紀が本当のことを隠してると思っている
人が多いわけですし
竹内家のような勢力のある有名な家で、
一子相伝の口伝の伝承がされているとするならば、
そこに興味深い情報があるのは当然だと思うのです。
 
ちなみに・・竹内家当主は、あくまでも伝承者として選ばれただけで
 
本人もどうしても信じられない内容もあるようです(笑)。
 
この記事は、「アマテラスとはどんな存在だったか」ということと
「日本書紀を書いた人物」についての伝承について書きます。
 
*****以下、竹内家当主によると。竹内家の伝承では。
 
まずアマテラスは、ニギハヤヒのこと。
 
アマテラスは、正式には「旧事本紀」(くじほんぎ)にも出ている名前
 
アマテラス・クニテラス・ヒコアメノホアカリ・クシタマ・ニギハヤヒノミコト
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
 
という名前で、それはつまりニギハヤヒのことであり、男性であったという。
 
ちなみにこの名前、アマテラスは大和族の神、クニテラスは出雲族側の神、アメノホアカリは、ユダヤの神であるという。
 
***
 
オオクニヌシの軍勢がナガスネヒコの軍勢に圧倒されて、絶対絶命の時に「大年神」(オオトシノカミ)が来た。
大年神とは、ニギハヤヒのことである。
 
そして、ニギハヤヒは、スサノオの四男である。
 
その時点でナガスネヒコは弩(ど)という石弓をつかっていた。
 
オオクニヌシの出雲族は、弩によって、ぼろ負けしそうになっていたが、
ニギハヤヒが来て、形勢逆転。
もっとも・・オオクニヌシとニギハヤヒの仲は良くなかったという。
 
その時、闘いがあったのは、現在、大阪にある磐船神社。
 
ニギハヤヒの天孫降臨の伝承が残る神社であるが、
要するにオオクニヌシとナガスネヒコの戦いの時、駆け付けたのが
ニギハヤヒだったということである。
 
ニギハヤヒは、スサノオの四男であったので
 
オオクニヌシの部下は、スサノオの王子が来たというので
「大年さまじゃ~~」となったという。
 
ニギハヤヒの力は圧倒的で、ナガスネヒコは、その後すぐに
降伏したという。
 
ちなみに、その時のオオクニヌシは、ナムジ、またはオオナムジであった。
 
ちなみに・・よくいわれる天磐船(アマノイワフネ)は、ニギハヤヒの軍艦のことであるという。
 
 
琵琶湖まで敗走したオオクニヌシが、最悪絶体絶命のとき、
ホアカリが来たという言い方もされるが、
これも、この時のニギハヤヒのことである。
なぜホアカリか。
最高に煌々とした明かりをつけて・・・クリスマスツリーのような
派手な明かりをつけて、来たからである。
天火明(アメノホアカリ)という。
 
天孫降臨と表現され、天火明と表現される、ニギハヤヒの登場は、
映画「未知との遭遇」に出てくる巨大な宇宙船のように
かっこよく来たということが推測でき、
ニギハヤヒは、宇宙人であったことも推測できるという。
 
 
この話は、記紀において、「出雲の国づくり」のエピソードとして出てくる。
『御諸山(みもろやま。三輪山のこと。)』の神が海上を照らしながらやってきたという話のところである。
 
「ニギハヤヒ = 大年 = アメノホアカリ」ということがポイント。
 
 
「日本書紀」でもナガスネヒコが天孫降臨したニギハヤヒに従った・・という話が書いてある。 
 
 
****
 
ニギハヤヒはスサノオの四男ということであるが、
 
スサノオの二男は、気の国(紀国)の大屋彦、すなわち
五十猛命(イソタケルノミコト、あるいはイタケルノミコト)であり、
 
植物の知識をもっており、全国を回り、全国に植物を植えた。
 
 
 
スサノオは出雲族に属するのであるが、
 
治金に優れた出雲族の一人として、スサノオの二男、五十猛は、鉱物も探したが、本人は植物のほうが好きだったという。
 
****以下、秋山真人の解説
 
出雲族は、高度な冶金の技術をもっていた。
 
冶金の技術の中では、ある特定の鉱脈か土質でなければ
定着しない樹木がある。
 
つまり、草木を見ると、鉱脈がわかる。
 
だから、冶金に優れたいた人たちは、必ず優れた植物の知識があった。
 
そこから薬草の知識も出てくる。
 
****以下、再び竹内家当主の言葉
 
さらに、情報。
 
第二十三世・武内宿禰、すなわち平群子首(へぐりのこびと)が、実は日本書紀をつくっている。
 
「古事記」と「日本書紀」は編纂当時の天皇がそれぞれ推古と持統で、
女性だったため、アマテラスを女性と書くことにしたという。
 
***
 
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
 
のうち、「櫛玉」は櫛名田姫の櫛、
そして「櫛」とは「越」のことだったという。
 
櫛名田姫は、越の国の姫である。
(今でいう石川県と、富山県のあたり。)
 
 
関連事項として、ヤマタノオロチの本名は
高志(越)八又龍命(コシヤマタノオロチノミコト)。
 
 
櫛玉の「玉」は海神族の王家、もしくは神器を示す。
 
「櫛玉の玉とは、海神族(ワタツミゾク)というか
大綿津見(オオワタツミ)すなわちポセイドンの王家もしくは神器を示す」
 
そのポセイドンから山幸彦(ヤマサチヒコ)は玉をもらうし、
ポセイドンは娘の豊玉姫をめとることになった。
 
****
 
ちなみに、記紀においては、男性のアマテラスが女性として描かれたが、
 
古代日本および世界の古代において、女神信仰が基本になっていたところが多く、女神信仰は意図的に置き換えられ、男神とされたところが多いという。
 
****
 
 
以上、正統竹内家・当主の方の本から、引用ですが、
以下は、感想です。
 
 
アマテラス・クニテラス・ヒコアメノホアカリ・クシタマ・ニギハヤヒ・ノミコト
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
 
という名前の
天照・国照・彦天火明という部分が、派手な軍艦、もしくは巨大宇宙船を思わせるとしたら、ニギハヤヒだけではなく、父親だというスサノオも、宇宙人ということになってしまいます^^
 
どうでしょうか、みなさま。そんな話は信じない人が多いでしょうね。
 
「天孫降臨」という言葉がある以上、まじめな研究者としては、
空から降りてきた可能性が否定できないということなのでしょう。
 
この記事を読んでいる方の半分くらいは・・宇宙人の存在を
信じていないのかな?と思いますが・・・。
 
アマテラスがニギハヤヒであり、クシタマニギハヤヒと呼ばれたと
すれば、アマテラスは石川県・・様々な人が語る伊勢-白山ラインに
ある「羽」のつく地名と関係があるかもしれないと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

八咫烏とは、誰か。古代の世襲名について。 

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正統・竹内文書には、八咫烏のことも書いてあるという。
 
以下に書くことは、竹内家に伝わることである。
 
神武東征の時に金鵄(きんのとび)が駆けつけて
神武を助けたと記紀にあるが、
 
金鵄は八咫烏であり、
八咫烏とは、すなわちアヂスキタカヒコネであるという。
 
さらに、神武とナガスネヒコが戦っているときに「ニギハヤヒ」が現れたことになっているが、
この場合のニギハヤヒは「世襲名」であるという。
最初のニギハヤヒとは、別人であるという。
 
竹内家当主によると、「古事記」と「日本書紀」でアウトなのは、
まず年代がアウト。600年ずれているという。
 
神武東征は西暦50年ころなのに、紀元前660年を
神武建国の年にしてしまっている。
 
さらに「古事記」「日本書紀」は、とりあえず世襲名という発想をしないと、解釈できないという。
 
例えば今の天皇陛下も、神武天皇も、同一人物というような見方である。
 
オオクニヌシも、ニギハヤヒも、ヒコホホデミも、
コトシロヌシも、記紀においては、すべて世襲名。
 
ホホデミとコトシロヌシは、8代続いているという。
 
コトシロヌシは、八重コトシロヌシとも書かれている。
これは8代続いたことを表すという。
 
神武天皇は、
カンヤマトイワレヒコホホデミノミコト
神日本磐余彦火火出見尊
 
ヒコホホデミという名前がついていた。
 
 
つまり、日向のヒコホホデミの王朝も、出雲の事代主の王朝も、
8代くらい続いていたけど、古事記と日本書紀では
8代を1代に、はしょっている。
 
以上、竹内家当主の説明より。
 
***
 
ところで私は彦火火出見という名前が気になっています。
 
「ヒコホホデミは、火が出るところを見ている人という意味だろうか」と
思うわけです。
 
なんの火だろう?
 
例えば、火山の溶岩ということはありえないのか、とか。
 
本当に、何の火なのでしょう。
 
知ってる方、教えてください。
 
 
 
 
 
 
 

すごい雪ですね!!

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皆さま、お久しぶりです。お元気ですか?
 
こちらは、週末ごとに、記録的な大雪となっています。
 
電車が止まったり、高速道路が使えなくなったりしています。
 
電車の事故も発生しました。
 
 
みなさまのほうは、いかがですか?

霊能をコントロールできないのは、チャクラのバランスが悪いのです。

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まずは、結論から。
 
霊能をコントロールできないとしたら、チャクラのバランスが悪いのです。
 
 
 
みなさま、こんにちは。
 
私が、霊関係で、初歩的・常識だと思ってきたことを
書いてみようと思います。わたしが初歩的な常識だと思ってきたことを、
知らない人が多いことに気づいたからです。
 
わたしは別に、最上級の霊能者ではありません。
初級ってとこでしょうか。
 
そんな初級の私が当たり前だと知っていることを、
知らない人が多いと気づいたわけです。
 
みんな、自分が経験したり、見聞きした、わずかばかりの霊的体験を、
最上級だと信じてしまいがち。
 
実は、三次元から四次元に入るという・・最初の段階が、
一番つまづきを生み出す「引っかけ」が多いんですね。
 
一番危険なのは、四次元なんですよ。
 
その上のレベルに行くと、いろいろわかってきて、見分けもついてきます。
 
 
最近、霊能力をコントロールできないのだ、という人の話を聞きました。
 
霊能力をコントロールできないで困っているとのことですが、
 
同時に、その段階で寄ってきた【霊】の情報を信じているらしいのが・・危なく見えます。
 
コントロールできない段階で見えたものは、あまりアテにならないですね。
 
 
 
霊能力にはいろんな種類とレベルがあって、
 
レベルの話もしたいのですが、その前に。
 
 
霊能力というのも、種類があって、一様ではありません。
 
おもしろいことに、最初の段階の人のほうが
「自分はすごいんだ」と思いやすいようになっています。
 
最初の段階は、当人を自惚れさせるような霊が現れるから・・というのも、本当の話。
このあたりは、常識だと思っていたのですが。
 
ちなみに・・私は、自分をすごいと思ってはいないです。
 
「霊界小学校・卒業レベル」でしょうか。
 
なんか、ゲゲゲの鬼太郎みたいだけど^^
 
 
どんな種類であろうと・・・霊能力をコントロールできないとしたら、
 
それは、チャクラのバランスが悪いのです。
 
下半身のチャクラにふりまわされて困っているとしたら。
 
いわゆる第三の眼、額の真ん中のチャクラから、目覚めさせるのがセオリーです。
 
 
2014年においては。ハートのチャクラを目覚めさせることが重要ですが。
 
 
それでも・・霊能のバランスがとれずに苦労しているとしたら、
 
まずは、第三の眼を目覚めさせることをオススメいたします。
 
 
わたしが、この種のことを、威張って、人に教えるようになるとは、
思っていませんでした。
 
だけど、世の中の人の多くは、「知らなさすぎる」ように見えます。

アストラル界の霊能の特徴。

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このテーマを書くにあたっての、心の逡巡については、
ラストに書いてあります。
 
*****
 
 
私が以下に書くテーマは、「アストラル界の霊能」についてです。
 
まず、ザックリとした、便宜的区分ですが、
 
よく使う区分として。
 
「私たちがいる三次元世界」
「アストラル世界」
「カラーナ界」
「プルシャ界」
 
↑この区分は、瞑想とか、霊界に立ち向かう時は、なかなか便利です。
 
他の分け方もありますが・・。
 
なお、霊という言葉は、三次元世界以上のレベルのモノ全てを
いちおうさしています。他の言葉にしてもいいのですが・・・。
 
 
ハイ、ここまでは、前提です。
 
 
***
 
アストラル界というのは、三次元世界の次のレベルなので、
 
四次元と呼ばれることもあります。
 
非常に色彩豊かで、味わい深く、魅力がいっぱい詰まっている、
 
素晴らしい世界なのですが・・・。
 
 
問題は・・このレベルの霊能は、いろいろと危険ということです。
 
瞑想の世界では、魔界と呼ばれます。
 
禅宗の世界の「覚知魔事」の魔は、この世界ででてきます。
 
*****
 
よく知られているアストラル・レベルの霊能者の特徴をあげておきます。
 
【1】普通では考えられない、誇大な、自己宣伝。
 
【2】霊から「あなたは、」世界の王だ」みたいなことを言われたという。
 
 
自己イメージが、とにかく誇大になります。
 
霊とか、瞑想とか、霊能とかに興味がなくても、
 
誇大な自己宣伝を見ただけで、ゲンナリ、というのが、ふつうの反応であるようです。
 
実は、このようになるのは・・・良い指導者がつかないで、自分で瞑想している
人に、非常によくあることで、珍しくもなんともありません。
 
この、誇大で肥大した自己イメージのまま、それなりの人数の人々に
受け容れられてしまうと、
 
いわゆる「邪教の教組」の出来上がりです。
 
***
 
アストラル・レベルの霊能者でも、超能力をもちます。
 
見えたり、聞こえたり、動かせたりですね。
 
ですから、超能力があるだけで、高度とも言えないのです。
 
人々を幸福にできるレベルの霊能・超能力を得て、
 
はじめて、尊敬できる意味の、霊能者/超能力者ということなります。
 
もっとも・・私たちは、あまりにも、「人を不幸にする霊能者」を見てきているので、
「霊能者」という言葉のイメージすら、悪くなる傾向もありますね。
 
*****
 
霊能というのは、すべて、チャクラに対応しています。
 
アストラル・レベルに偏った霊能者というのは、
 
下半身のチャクラ・・・
 
ムーラダーラ・チャクラ(尾てい骨あたりのチャクラ)
 
スワディスターナ・チャクラ(丹田のチャクラ)
 
のみが強力になった時に、発生すると言われます。
 
ですから、精力とも非常に関係があると言われ、
性欲の変形という考え方もあります。
 
ちなみに・・そもそも、クンダリニーのエネルギーは、
いわば、フロイトの言うリビドーなので、
精力なんですね。
 
下半身のチャクラが開いていても、そこをコントロールできるだけの
 
第三の眼が開いていれば、
 
全く問題がないというか・・・
 
むしろ、人間として、大物になると言われます。
 
 
とにかく、アストラル界の霊能が強くなってきたら、
 
そこをコントロールできるだけの
 
第三の眼、
 
あるいは松果体、
 
そのあたりを開かなくてはなりません。
 
 
世界的に有名な霊能者など拝見すると、
 
わたしには、その人の「バカでかくなっている、松果体」が見えます。
 
バカでかい、松果体が、グルングルンまわっているところが
みえたりします。
 
あ、それも、四次元以上の存在としてね。
 
****
 
つまり・・・アストラル界の霊能が目覚めてしまったら、
 
とにかく・・・スシュムナ(気の通り道)の流れをよくすることと、
 
第三の眼をひらくしかありません。
 
第三の眼をひらいてしまえば、大丈夫であるといわれています。
 
*****
 
 
この話は、今はあまりしたくなかったのです。
イヤミに聞こえたら、イヤだと思ったから。
しかし・・あまりに話が通じないので、書こうと思います。
 
以上に書いたことは、一般論であり、
 
最近界隈で「どの程度霊能がホンモノか」話題になっていた、
ある女性とは、直接の関係はありません。
 
その女性のことは、わたしは結構好きなんです。
詩的才能があって、寛容で、おもしろい、なかなかいい人だと思います。
いわゆるインスピレーションは、感じますよ、その人から。
詩人としてデビューなさるなら、大応援したいくらいです。

やさしい心と、説得力・・・。

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みなさま、こんにちは。
 少しだけ、「やさしい心と、説得力」について考えてみたいと存じます・・・。
 
***
 
やさしい心には、説得力があります。
 
やさしくて、やわらかい心。
 
 
それは、たぶん
 
 
きれいな泉のように、あなたの心をうるおし、
 
傷ついていれば、手当てをし、
 
寒ければ、真綿のような温かさとやわらかさで、包んでくれます。
 
あるいは、母のように、抱きしめてくれます。
 
 
 
陽だまりの太陽のように、
 
あたたかい心。
 
光のように、
 
明るい心。
 
きらめく木漏れ日のように、
 
美しい心ですね。
 
 
海のように大きく、
 
大地のようにあたたかく、
 
空のように澄んでいます。
 
 
 
 
 
それは、限りなく、軽やかで、
 
自由自在に形を変え、
 
 
人々の喜びをともに喜び、
 
つらいとき、共に寄り添い、
 
悲しみを拭い去ってくれます。
 
 
愛が人々にしみこむとき、
 
やさしさと、あたたかさとして感じられます。
 
それは、まぶしい光であり・・
 
そよかぜであり・・
 
気楽な会話でもあり・・
 
親しみと、
 
時には遠慮のなさでもあり、
 
喜びであり・・
 
楽しさです。
 
 
あるいはもっと大きなもの。
 
生きている喜びであり、
 
孤独から救われる瞬間であり、
 
一体感です。
 
 
 
赤ちゃんが、おかあさんから欲しい心。
 
おかあさんが、赤ちゃんから、欲しい心。
 
やさしい心に乗って
 
愛は、世界の果てまで、運ばれてゆきます。
 
やさしい心は、
 
宇宙の果てにも伝わるでしょう。
 
 
 
やさしい心が、しばしば、強力な説得力をもつのは、
 
他人を尊重する気持ち、
 
他人を大切に思う気持ち、
 
愛、
 
友情・・・などを、
 
一度に表せる、波動だからだと思います。
 
 
結果として、やさしい心を与えた人も、たいていは・・尊敬されます。
 
不適切な場合を除けば・・ということにしておきますね。
 
有用で尊敬されるからこそ、信頼関係が生まれ、
 
その人が言うことに、説得力が生まれるのでしょう。
 
*****
 
 
エーリッヒ・フロムの『愛するということ』によりますと、
 
愛の基本的要素は、
 
「配慮」
 
「責任」
 
「尊敬」
 
「知(もしくは、理解)」だそうです。
 
 
このうち、「配慮」は、一般的には、「思いやり」と解釈されています。
 
***
 
「責任」は、他人の要求に応じられる、もしくは、応じる用意がある・・と
書かれているそうですが、
 
そうですね・・・。
 
フロムではなく、私の言いぐさですが、
 
まあ、愛していても、応じないということは、あると思います。
 
多分、フロムは、要求に応じようとする心、のことを言ったので、
 
「誰かのいいなりになることが、愛」とは言っていないだろうと思います。
 
わたしは、相手のためにも、自分のためにも、要求に応じないほうがいいと判断することは、とても多いです・・・。
 
 ***
 
 
「尊重とは、人間のありのままの姿をみて、その人が唯一無二の存在であることを
知る能力のことである」だそうです・・。
 
全面的に、同意します。
 
 
***
 
 
「知」もしくは「理解」とは、「相手を知る」だそうです。
 
 
***
 
 
フロムの分類を前提として尊重するとして、
そこに私の考えを乗せると、
 
「やさしい心」は
 
「配慮」・・思いやりと、
 
「知」または「理解」・・相手を知る
 
 
ことの結果、必要になることが、多いような気がします。
 
 
 
 
優しさを演出しようとして、近づいていっても、
 
「てやんでぇ!めんどくせぇ!あっちに行きやがれ!」と
 
旧江戸弁で、言われる可能性もあると思います(笑)。
 
(*^^*)
 
 
 
 
やさしさ、やさしい心、やさしい雰囲気などは、万能ではありませんし、
 
必ずしも他人がそれを求めているとは限りませんし、
 
不適当な場合もあると思いますが、
 
 
それでも・・・人間にとって、もっとも大切なものの一つであることに、
 
深く、同意いたします♪
 
 
 

母と妹の、「好意と、善意と、公平さと、愛と、愛情」を全面的に信じています。

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このブログ初期からの読者の方は、
 
わたしが自分の母と妹に裏切られていたと・・傷ついていたのは、覚えて
いらっしゃるかもしれませんね。
 
 
報告が遅れていたのですが、
 
少し前から、方針が変わっています。
 
現在、わたしは、自分の母と妹については
 
「母と妹の、私に対する好意と、善意と、公平さと、愛と、愛情を
全面的に信じる」
 
ということにしています。
 
 
ですから、ひょっとして・・・必要なだけ和解しているか、
 
最終的和解に向かって爆走しているか、どちらかです。
 
 

女性性と男性性との和解も起きました。

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今朝、 
「母と妹の、私に対する好意と、善意と、公平さと、愛と、愛情」を
全面的に信じる」
 
ことにしたということを御報告したのですが、
 
わたしなりに、「女性性と、男性性の和解」の象徴であることも、
同時に、起こりました。
 
 
 
私が生まれてからこのかたデートした中で、
 
一番トンチンカンな、愛情表現をなさっているように見えた男性の
 
その時の
 
「好意と、善意と、友情と、愛と、愛情」も、
 
信じることにすると、最近、決めました。
 
 
 
その男性と初めて会ったのは、10代のころで、デートしたのは、
それから10年以上経ったときで、長い間、ずっと好きでいてくれたらしく
 
そのデートはずいぶん前の話ですが、
 
わたしは気に入らず
 
その時以来、その男性を「きらいな男性の筆頭」みたいに考えていましたが、
 
少し変えることにしたのは・・
 
時間が経つうちに、彼が住んでいた世界も、見えるようになってきたのだと思います。
 
わたしとは違う種類の観念の世界です。
 
彼の生い立ちから来たのであろう、特殊な観念も、わかるようになりました。
 
 
 
 
彼は言葉では私に対して「好意と、善意と、友情と、愛と、愛情」を
保証していたのですが、
 
行動のほうは、私から見て
 
「世界で、かなり嫌いなこと。二番目くらい?に嫌いなこと」とか、
「三番目くらい?に嫌いなこと」とか
そんなことばかりなさる方だったので・・・
 
しかも、『僕の言葉ではなく、行動を観てください』なんておっしゃる方で・・
 
(本人としては、愛情表現しているつもりだったのですね。↑)
 
長い長い間、彼の「好意と、善意と、友情と、愛と、愛情」を信じることは
できませんでした。
 
拒絶して、さらに忘れていたつもりでしたが、
 
忘れていた「つもり」は、あくまでも「つもり」で、
 
その時拒絶した観念体系を、私は、忘れたことはなかったようです。
 
 
逆に・・自分が当時、死守していた、男女関係に対する頑固な観念体系も、
 
今では、かなり、客観的に見えている・・ということでもあります。
 
 
 
彼を許すことは、私にとっては、女性性と、男性性の重要な和解の象徴でもあります。
 
デートした男性で、イヤだったのは、今でも、彼しかいないし(苦笑い)。
 
だけど・・・自分の観念と反するからこそ、出会ったのだということも、
今では理解できます。
 
最高の教育を与えてくれるために、出会った人だったわけです。
 
 
 
今彼の「好意と、善意と、友情と、愛と、愛情」を信じたとしても、
 
私と彼が恋愛関係になることはないですが、
 
霊的に、許しと和解の状態に達したいと思っています。
 
 
他の男性と普通に仲良くしている間に、
彼のことは、「悪」と思っていたのですが、
広い視野で考え、許すことに決めたのです。
 
許すのですから、彼のことは、少し好きになることにしました。
 
彼が当初望んでいたように
「あなたのことが、一番好き」という私になるのは今でも無理だし、
それはチョット甘すぎるでしょうけど。
 
「一番好きという、お芝居なら、してあげてもいいよ。
お芝居と理解してくれるなら。」くらいなら言えるかな。
 
え?なんか私、威張りすぎですか?
 
だけど・・どのくらい好きなのか、はたまた嫌いなのか、
あまり誤魔化さないほうが、いいですよね?
 
そうじゃないですか???
 
 
 
好き偏差値で、50以上にしてあげようかな、
どのくらいにしてあげようかと、思案しているところです。
(彼は、もう、表面意識としては、私のことは忘れたと、言い聞かせているはずだけど。別の世界にいるのだろうし・・。)
 
かつては、好き偏差値はかなり低かったので、意図的に操作して、
数値をあげることにします。
 
 
彼は・・私を鍛えるためにやってきた「ソウルメイト」の一人だと思っています。
 
 
彼に出会えなかったら、「男女が理解しあえない世界」を想像するのすら、
無理だったと思います。
 
私はもともと、女性的なほどに共感性が高い男性が好みなので、
「これは、理解しあえない男性である。」と心から認識したのは、
この人だけだったのです。
 
 
しかし・・あらゆる認識の裏付けと同じように、
 
認識とは、自分の観念の認識だったのです。
 
 
 
その人は、世界の問題点の一つを、非常に凝縮して見せてくれたのだと
思っています。

サタン(悪魔)について。

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サタンについて、ある方から話しかけられたので、わたしの意見を書こうと思います。
 
「善悪の統合は、神側に立って行うべき」という意見に賛成の方から
コメントをいただくのは歓迎ですが、
 
ちがう意見の方のコメントは、あまり欲しくないのです・・。
 
サタンの波動にあまり影響されたくないのです。
なので、コメントは承認制にします。
 
反対意見の方は、なるべく短いコメントを、お願いします。
 
さらに・・このテーマにコメントをいただいたあと、
私が読んだ後で、コメントを消すこともありえますが、
どうか、お許しください。
 
***
 
サタン(いわゆる悪魔)の特徴は・・
 
『聴衆/観客』を必要とする・・ということです。
 
ウソをつき、人を欺くのがサタンの仕事です。
 
(以上の考え方は、メタ・フィジックスの研究家で瞑想家、
ボブ・フィックスの本にも出てきます。)
 
大ウソであればあるほど、サタンが必要です。
 
逆にサタンは・・餌食がなかったら、活動できないでしょう。
 
サタンが活躍するためには、魂が必要ということでしょうか。
 
この場合のサタンとは、集合霊としての、サタンです。
 
***
 
一方、集合無意識としてのサタンは、もともと、地球人の恐怖から
出来ているとも言われます。
これも、ある意味、正しいのだと思います。
 
***
 
上に書いたのは、集合霊&集合無意識としての、サタンの話です。
 
理論物理学的・形而上学のサタンは、また別のものでしょう。
 
形而上学的に、神が遍在し、すべてのものは、もともとは神だとすると、
ルシファーという性質・・が神から分かれたのであり、
それがいわゆる、サタンです。
 
サタンは、この世をこの世にするためには、必要なものでした。
 
***
 
現在、地球では、善悪の統合が進んでいて・・だから、
 
サタンとの統合が重要だ・・と言う人がいます。
 
 
善悪の統合は、大切だと思いますが。
 
 
でも・・・自分が、サタンと一体になって、サタンのパワーを得ることが、
サタンを統合することではないと思います。
 
***
 
神の愛の中で、サタンが愛に変わるところを見届けることができれば、
それは統合だと思います。
 
***
 
悪魔から言い寄られて、悪魔の花嫁になれと言われている
女性がいるらしいですが・・・
 
わたくし的には、悪魔の花嫁になることを薦められないし、
だまって観ていられない気持ちになります。
 
その方は、特殊な使命があるとのことですから、
 
悪魔を避けられないのかもしれません。
 
しかし、 悪魔に近づかれるようであれば、
おつきあいをお断りすることになります。
 
***
 
日月神示が言うように、
 
日本人が、「悪を抱きまいらせる」ことが、地球のレベルアップのために、
必要なのかもしれません。
 
でも・・それは・・。
 
神の側に立脚して、悪を抱きまいらせる・・ということだと思います。
 
悪魔側に立脚して、悪魔を抱き込んでも、善悪の統合はできません。
それは、当然、自分が悪魔になる・・という結果になるだけです。
 
 
あくまでも、神の側に立脚して・・・
 
つまり、いつわりのない、善意に立脚して・・
 
サタンを責めず、サタンを恐怖しなければ、それは統合かもしれないと思います。
 
そこに、なんらかの、弁証法的運動を見る人もいるでしょう。
 
 
でも・・その運動は・・・他人に強制できないものですよね。
 
つまり
「現在、地球では、善悪の統合が必要だから、あなたは悪魔を受け容れなさい」とは
他人には言えませんね。
 
やっぱり、他人には、「あまり無理しないで、安全に進んでください」と私は
言うと思います。
 
***
 
昔から言われているように・・現在においても、魂を食べるのが
悪魔の仕事です。
 
それはつまり「恐怖させる」「恐怖させて攻撃させる」
「他人の痛みや苦しみを無視するようになる」ということです。
 
しかし一方、特定の痛みと苦しみを強調して、その相手を悪く見せる・・というのは
それ以上に多いのかもしれません。
 
悪魔の仕業として非常によくあるのは・・・
 
実は、善意に見せかけることですが、
 
「Aを悪く見せて、Bを善く見せかける」
というような
 
陰謀形態は、サタンが好むところです。
 
***
 
善悪にこだわる人は、みんな、悪を責めていることになります。
 
究極の善人は、他人の悪意が見えなくなるとも申します。
 
 
何が善で、何が悪かは、難しいですが、
 理想なのは、全員が善に見えるようになることではないでしょうか。
 
誰かを悪人に仕立てて、同情を引いている人には、要注意です。
 
多分、その人がいう悪人は、悪じゃない可能性が高いです。
 
 
***
 
「わたしは、善意に立脚して、悪魔を抱きまいらせます」と言う人も出てくるでしょう。
 
だけど・・その人が悪魔に似てきているように見えてしまったら、
 
賛成もできないし、協働もしにくいし、
 
自分の生活から、出てほしいと思うかもしれません。
 
***
 
悪を抱きまいらせて、地球の波動レベルを上げるのは、
神の側にいる人だけができることです。
 
統合できるのも、神の側にいる人だけ。
 
悪魔側に立って、悪魔を抱き込むのは、善悪の統合とは言いません。
それは、単に自分が悪魔になるだけなのです。

新興宗教が苦手な理由・・・。

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新興宗教が苦手な理由を書いてくださいと言われましたので・・。
 
書いてみようと思います。
 
 
苦手なのは、新興宗教だけではないのです。
 
そもそも・・よほど意味を感じないと、自分の上に権威として
置くことができません。
 
 
でも・・・みなさんもそうじゃないですか。
 
 
確かに・・・「アストラル・レベル」(低いレベルの霊界)の
宗教家は、かなり嫌いですけど・・・。
 
芸術家だったら、アストラル・レベルをうまく扱う人は、好きです。
 
宗教というのは、人を盲目的にして、信じ込ませるわけですから・・。
 
低いレベルに見える宗教には、嫌悪感があります。
人々を、低いレベルにしようとしているように見えるわけです。
 
 
だけど・・・何を低いレベルと見るかは、人によって違いますね。
 
やたらと「あの人は、レベルが低いね」と言おうものなら・・・。
言った人が軽蔑されたり、恐怖されるでしょうね。
 
何がレベル高く見えているか、人によって違うわけです。
 
 
21世紀では、人々が、少しずつ、「霊能者」みたいになってきて、
 
誰の見ている霊界がレベルが高いのか、争いにもなるのでしょうね。
 
 
無難なのは、感覚が似ている人とつきあうことですが・・・。
 
 
わたしは、これからも、アストラル・レベルに見える宗教家の権威は、
受け容れずにいきたいと思います。
 
これはポリシーにいたします。
 
みなさま、よろしくお願いいたします。
 
 

なぜ、神のみを愛し信じる宗教家が好きか。

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宗教とは、根幹の部分で、ひたすら無批判なものです。
 
信奉する対象を赤子のように受け容れ、
 
対象の属性・徳・あるいは全てを受け容れようとします。
 
 
人間は、不完全なもの。
 
 
マトモな宗教家だったら・・・かなりのレベルであっても
 
「私を信じなさい」とは口が裂けても言わない。
 
「わたしは神だ」とも言わない。
 
自分が神と誤解されることすら、徹底的に避ける。
 
彼らは、神を愛することを、人に薦めるだけです。
自らの人生を使って。
 
 
 
聖フランチェスコであれ
 
出口王仁三郎であれ
 
マザー・テレサであれ
 
 
 
神に対する全幅の信頼は表明していますが、
 
自分を宗教的対象にしろとは、絶対に、ひとことも、
 
言ってないはず。
 
 
これが邪教と呼ばれるほうになると
 
教組はカンタンに、自分を神と名乗ります(爆)。
 
 
そこを見るだけでも、見分けることができるくらい。
 
 
別にいわゆる霊能を使わなくても
 
邪教を見分けるのは・・基本的常識がそなわっていれば、できる。
 
 
一方、今の時代・・多くの人・・霊能者でなかった人に、
霊能の自覚が出てきていると思う。
 
本当は、人間は、すべて、もともと霊能がある。
今までは自覚しないで済んでいた時代ですが、
これからは、自覚する人が爆発的に、増える。
 
こういう時代だからこそ、「宗教的対象にしていいのは、神だけ」という
基本を押さえるのは、とっても重要だと思うし、
 
このことさえ知っていれば、大きな「迂回」は避けられるかもしれないと思う。
 
迂回とは、輪廻転生の回数が増えることですよ~。
やたらと迂回するのは、疲れるよ。
さっさと、その画面はクリアして、
次のレベルに行っちゃいましょう♪
 

なぜ、デビルを活写する芸術家が好きか。(ローリング・ストーンズ論、ベートーヴェン論にもなっています。)

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ええと、まず。
今週はローリング・ストーンズのライヴに行きますよ。
 
いろんな曲が楽しみだけど、
「シンパシー・フォー・ザ・デビル」はいいね。
 
ホンキートンク・ウーマンの、リフは、だいたい最高に盛り上がり、
客を躍らせるけど、
シンパシー・フォー・ザ・デビルのサンバのリズム、楽しみにしてる人は多いと思う。
 
悪魔を憐れむ歌という邦題だけど、
「悪魔に共感する歌」でしょ。
 
 
宗教家は、神を信じる宗教家オンリーが好きと、書いたばかりで、
 
神を信じる宗教家以外の宗教家は、
自分の宮である
大切な、私の家には
絶対に入れたくない私ですが。
 
 
 
芸術家となると、デビルを扱ってる人たち、好き、好き。
 
ファウストを書いたゲーテ、大好き!!
 
地獄篇書いたダンテ、興味ある!!
 
ドストエフスキーの罪と罰、おもしろい!!
 
水木しげるの悪魔くんも、ここにあるよ。
 
 
 
芸術とは、すべて批評だからなのだよね。。
 
わたしの友人の女性で、エロ小説を書いてる人がいて、
まあ、もともとエロい人ではあるのです。
本人は、世間から「清純な、気高い、美人」という扱いを受けています。
 
ふだんは外見の印象から「清純だ」と男性たちから、あがめられています。
吉永小百合のように・・です。
で・・彼女は芸術家として認められている人で
「わたしの小説は、芸術である」と言ってます。
 
 
 
 
そもそもエロは、スピリチュアルなもの。
支配やグロや残酷やスカトロとは違うと思うのだけど・・。
 
しかし、エロはヒーリングつまり「癒やし」に使われるため、
倒錯の治療に使われることがあるのは・・いたしかたないでしょう。
 
すべての人が、倒錯してはいないし、だから
すべての人が、倒錯をエロで治療する必要はない。
だから・・倒錯と無関係な人を倒錯の世界や、倒錯のエロの世界に
もっていくのは、私は大反対です。
 
子供や、弱い人々、清純な男性や、清純な女性を守りたいです。
 
倒錯エロは、必要ない人には、まったく必要ないと思う。
 
エロは魂を溶け合わせる神聖な行為のように拝察します。
誰とでもできることではないでしょう。
 
 
私は、今後、
「自分を神社と考えて、自分という宮を守ろう」と
提唱しようと思っています。
それは人と人との分離とは違うことです。
 
 
人間の尊厳を守る行為。
 
さらに・・・人間が一番他人を愛することができるのは、
実は、一人で祈る時かもしれないという気持ちがあるからです。
 
孤独な祈りの中で、人間は、他人を最大限に許すことができる。
 
そのためには、一人ひとり、ちゃんと宮の中にいたほうがいいと
思うんですよねーーー。
 
 
 
エロは本来、神聖な行い。
心底合一してもOKという確認をしてから、
魂を溶け合わせましょう。
 
 
 
 
ちなみに・・上述の倒錯とは、
人間をスピリットととらえるのではなく、肉としてとらえるという意味です。
20世紀までは、唯物論が跋扈していたから・・
人間をスピリットととらえるのではなく、肉としてとらえる方向性ができましたね。
 
原理的にいって、人間は、スピリットだからこそ、価値があります。
 
人間の価値は、他に説明しようがない。
 
芸術はインスピレーションの伝達でもあるけど、 
もう一つの側面は、右脳的批評なんだよね。
つまり・・ものがたりとして描かれたものと、本人とは距離があるということ。
 
そういう意味で・・
「ロバート・ジョンソンは、悪魔に魂を売ってないんじゃないか」と
時々、思う。
 
ロバート・ジョンソンの悪魔話は「芸術」のほうじゃないかなと。
だけど、ジミー・ペイジは、本気にして、悪魔に魂売ったかな?と思う。
 
 
ギタリストとつきあう女性は、彼が悪魔と契約したことがあるかどうか、
つきあう前に、確認した方がいいと思います・・・。 
本気で悪魔と契約するギタリスト、今でも、います。
 
何年か経ったあと、ギタリスト宅、扉をノックする、黒い姿。
 ギタリストとつきあった女性のほうに請求書が来る可能性あり。
 請求書には、「たましい、ひとつ」と明細があるかもしれません。
 
 
 
芸術を通じて、人々は空想の世界で、実際には手を汚さずに
悪を生きることもできます。
 
殺人本は・・娯楽本ふくめて山のようにありますが、
読む人は、殺人者の気持ちに思いをはせることはできて、殺さなくて済むわけです。
 
すごく残虐と言われる作品群もあります。人間を肉と見る見方をどこまで
おし進められるか、挑戦しているような。
 
そういう分野のものとして
Vシネマ・ギニーピッグや
映画ムカデ人間は・・・趣味として、見たくないけど^^
ギニーピッグシリーズに主演したことがある、
ゆずの北川悠仁は結構好きだけど・・・それでも見たくないのですが
 
(わたしが弱虫ということもある)
でも、やはり、芸術なのかな。
 見てないから、わかりません。
 
批評より、悪徳に対する陶酔が主題になっている可能性もあると思う。
陶酔が主題だとすると、黒ミサみたいになっていて、
「神以外に対する宗教」に片足を突っ込んでいるのかも
しれません。スレスレなのかも・・・。
 
いや、それとも・・たいしたことないのかな。ただの芸術もしくは悪趣味なのかも。
(見たことないから、わかりません・・(爆))
 
世の中に適合しない、悪癖も、芸術という形で出してしまえば、
価値があるかもしれません。
 
 
ゲーテは大好きなんだけど、
 
ゲーテは「若きウエルテルの悩み」で自らの失恋を再構成した。
ウエルテルは死に、ゲーテは生き残った・・なんて言われるよね。
 
もちろんファウストは魂を売ったけど、ゲーテは売らなかった。
 
それが芸術だと思う。
 
現実世界と、アストラル世界で起こったことを再構成して乗り越えるわけ。
 
 
 
だから・・次元高めすぎる主役が活躍する小説は、イマイチである。
現実世界&アストラル世界の、その上のレベルで生きた人は、小説にしづらい。
聖フランチェスコを書いた小説を読んでみたのだけど。
・・ふつうの小説と違う。
一部、宗教書にしないと、ストーリーが成立しなくなってしまうのがわかる。
 
アストラル世界とその上の世界を同時に生きた人が書いた「詩」は
サイコーです。優れた詩人は、みな、そこにいます。
 
 
芸術家は、
再構成することで、死なないで済むようになる。
再構成することで、ホンモノの堕落を味あわなくて、すむようになる。
 
 
わたしは、あくまでも、宗教家に関しては、
 
神を信じる宗教家のみを愛する。
 
宗教は、無批判な受容だから。
 
 
ジョルジュ・バタイユは、どこかで、人間がスピリットであることを忘れ、
人間が肉だという感覚に陥ってしまったようにも見える。
それが、彼の倒錯で。
もしも、生まれ変わりというものがあるとすれば、
彼は生まれ変わって、またいろいろ学んでいるのでしょう。
 
 
もしも生まれ変わりというものがあるとすれば、
人間が、スピリットであること忘れると、転生の数が増えるので、
損だと思う・・。
 
 
ローリング・ストーンズの、キース・リチャーズは、人間は、
スピリットでしかないという感覚のなかで、生きてる人だと思う。
 
キースは、ウェールズ人の典型 。
エミリ・ブロンテ「嵐が丘」のヒースクリフ
シャーロット・ブロンテ「ジェーン・エア」のロチェスター
みんな、キャラがかぶってる。
 
現実的でタフでありながら、
同時に、スピリチュアルであり、美しいものを愛し、
女性を大切にする男性。
  
キース・リチャーズは、スピリチュアルな印象を与えている人物だと思う。
 
キースは悪魔教に入信したり、しないらしい。
彼は悪魔教に接近したことがある。
アニタ・パレンバーグは、そちらに興味があったと思う。
だけど、キースが崇拝してるのは、ロックンロールの神様なんだもん。
 
キースの指にドクロの指輪が輝いているのは有名で
あれを悪の象徴と見る人もいるけど
キースは、古代の叡智に敬意を表しているのだと・・私は思うのです。
 
だいたいキースは、あれで・・・クラシックな文化に精通している。
カリブの海賊シリーズで、ジョニデが活写した、千鳥足の海賊は
キースの一面の姿。
 
そもそも、ドクロほど、神聖なものは物質次元に、あまりないし、
頭蓋骨ほど役に立つものはない・・と私は思っています。
 
どうですか。頭蓋骨は、悪いものですか?
 
人間の体ということを考えた場合、
宮(みや)にあたるのは、頭蓋骨と心臓あたりというのは、
納得していただけるのではないかと思うのですが・・。
背骨も重要ですね。
 
 
キースが悪魔教に入信しないことが
ジミー・ペイジと違って、現役感バリバリであり続ける
秘訣かもしれない。
 
 
キースは、ウエールズの聖なる魂と契約しているみたい。
それは神でも悪魔でもなく・・
 
悪魔の相貌ぽい
神の僧房
 
悪魔の僧房ぽい、神の僧房とは、ドクロのことじゃないか。
 
 
 
悪魔の相貌ぽい、神の僧房というと・・ベートーヴェンにつながるイメージでもある。
 
実は、わたしは10代のころから
「キース・リチャーズって、なんでこんなに・・ベートーヴェンに似てるの?」と
思っていた。両方の音楽を聴き比べながら、思っていた。
  
ちなみに、ベートーヴェンの音楽は、あの時代としては、異常にシンコペーション多用だそうで。その意味で20世紀の黒人音楽に似ているそうである。
私はアフリカ系アメリカ人から、真顔で『ベートーヴェンは黒人』と力説されたことがある。
  
ベートーヴェンは、暗黒の世界を描きながら、神の歓喜と組み合わせて
コントラストにしてしまう。
 
ストーンズにも、そのようなところがある。
敢えて神と言わなくても、清らかな浄化作用を感じさせるところが。
 
何度も何十年も同じ・・歌謡曲?を聴かされているのに
カタルシスであり続けるのは、浄化作用があるからだ。
 
 
 
 
 
キース・リチャーズは、悪魔の相貌ぽい、神の僧房にいる。
芸術家だから、スレスレのところにいるのだ。
 
現在、アンチ・エイジングの星となって燦然と輝く
ローリング・ストーンズは、昔から言われるように・・
 
キース・リチャーズの宮(みや)の上に成り立っているバンドである。
 
お囃子(おはやし)は、スイングジャジー・チャーリー・ワッツが担当し、
 
ヒラヒラと舞う美しい白拍子、
あるいはアンドロギュヌスの道化師でもある巫女が、
ミック・ジャガーと名乗っていても。
 
 
 
 
芸術がすべて批評である以上、
芸術家は、アストラル界の全体を描写できることが望ましい。
 
しかし、全幅の受容を要求する宗教で、信じていいのは、
神だけだと思います。
 
 
わたしが宗教家と、芸術家に対して、まったく・・一見違って見える
 
基準を使用しているのは、以上のような理由です♪

神とアクマ(サタン)の定義について。

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2014年にふさわしい形で、形而上学してみたいと思います。
 
神と悪魔、特にサタンについて、定義してみたいと思います。
 
 
アクマに関しては、「空想上のもので、人間の恐怖が創りだしたもの」という
説明で、ある一面については、現在でも万全だと思います。
 
一方、形而上学的に、無視できないサタンもいます。
 
20世紀以降の形而上学で扱われる基本に沿って、
サタン/アクマについて、簡単にまとめてみたいと思います。
 
***
 
キリスト教や仏教の禅宗、
20世紀以降のニューエイジや、スピリチュアリズム、
さらに神智学会にいたシュタイナーのルシファー論(←10年位前に読んでいます)
 
などもふまえて、書いてみたいと思います。
 
***
 
現在多くの人が考えるところによりますと、
 
最初に「ワンネス」とも呼ばれる神だけが存在していました。
 
生命と愛と創造力の本源、
あるいはすべての本源、
あるいは究極の善良さという概念に、
 
神という名前が与えられています。
 
神は分離を創りだし、次元の下がった部分を創りだすことで
「経験」を得ようとしました。
 
経験のために次元を下げに下げた魂が・・たとえば、私たち人間になったりする。
 
その際、次元を下げるための装置、あるいは次元を下げるための要素として、
 
サタンと呼ばれるルシフェルを創りだしました。
 
 
ですから・・・もともとサタンには、「次元を下げる」という目的があり、
善でも悪でもない中立のものなのです。
 
 
***
 
ここで簡単にまとめます。
 
「サタンとは、次元を下げるための装置」Ⓒカヲル32
 
***
 
さて。ここからは、形而上学ではなく、日常の話になります。
 
ここしばらく、
 
「カヲルさん、サタンと仲良くしてください」
 
「サタンは弱いものです」
 
「私はサタンを改心させることにしました。カヲルさんも協力してください。」
 
 
などなど・・・。
 
サタンと仲良くせよと、何人ものヒトに言われました。
 
しかしですね。
 
やはり・・私の考えによると
 
「サタンは、次元を下げる装置」Ⓒカヲル32です。
 
 
サタンと仲良くせよというのは、「次元を下げろ」と言われているのと、同じです。
 
次元を下げろなんて・・言われても困ります。
 
どんな次元にいたいかは、自分で決めればいいことではないですか。
 
 
***
 
次元を下げることがいけないことだとは、言いません。
 
私たちが人間をやっているのは、
 
人間次元まで下がって、いろいろ経験するためでしょう。
 
 
逆に言うと私は「すべての人」に
 
もっと高次元の「別の自分」があると思っています。
 
いわゆる「ハイアー・セルフ」ですね。
 
 
とにかく私は・・どの次元にいるかは、自分で選びたいのです。
 
だから・・「サタンと仲良くせよ」と言われても、困ります。
 
 
***
 
「カヲルさん、サタンを改心させる活動を、いっしょにやろう」とお誘いも受けましたが、
 
「サタンとは次元を下げる装置」Ⓒカヲル32なので、
 
サタンが改心することはないし、その必要もないと思います。
 
サタンは、いわば、道具ですから。
 
***
 
「サタンを改心させるために、サタンと心底合一するのだ」という意見を
聞きましたが、
 
サタンと合一するとは「他人もしくは自分の次元を下げる装置になる」ことを
 
意味しているとしか・・私には聞こえないのです。
 
サタンと合一するとしたら、「うそ、いつわりの存在」になることも避けられないでしょう。
 
サタンと心底合一しようという方々とのつきあいは、お断りしようと思っています。
 
 
***
 
 
自分の望む程度よりも次元が下がっては、困るからです。
 
 
***
 
ちなみにサタンは、
 
わたしたちの次元では、
 
「うそ」と「いつわり」の世界を創りだし、
 
さらに、人々の愛と生命を奪う・・という形で働いています。
 
人間には愛と恐怖の感情しかないとも言われますが
 
恐怖のほうを刺激することが、サタンの仕事です。
 
サタンは必ずしも強く大きく見せるとは限らず、
被害者もしくは教組を装って、同情を引き、誰かを殺させる・・ようなことも
やりますね。
 
最終的に、命が奪われていたら、サタンが働いたと考えても
かまわないわけです。
 
つまり・・サタンは、「次元を下げ、愛と命を奪う」という運動を淡々と行う
道具ですが、様々な経験をするためには、そんな道具も必要ということです。
 
サタンは、とにかく、人を乗せるのがうまいわけです。
 
そもそも・・三次元の世界をホンモノだと思っているのは、どこかおかしいのだと
思います。
 
何か理由があって、何か装置があって、わたしたちは、本当は三次元では
ないこの世界を、三次元の世界だと思って暮らしています。
 
三次元世界(色)を空だと言ったのは、お釈迦様でしたっけ。
 
イエス・キリストも、三次元世界を無視するかのような
発言を繰り返しました。
 
どうも・・次元があがって、目覚めた人にとって、この世は三次元ではなくなるらしいですね。

宗教の社会学①。「宗教とは何か」~(1)「宗教の原始的形態」

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以下、わたしが宗教学者、大田俊寛さんの本からの抜粋をもとに
「宗教とは、人間が社会を保つための虚構の人格」という
考えに沿って、私らしさも加えて、まとめたものです。
 
社会学的・近代理性で書いてみました。
 
****宗教とは何か。****
 
古代の人々は、家族から死者が出たあと、「先祖の霊」を想定することによって、
残りの家族をまとめ、遺産の分配が適宜に行われるようにはかり、
「先祖の霊」を想定することで、小さな社会を成り立たせていたものと思われる。
 
おそらく、
「死者の霊」を想定することによって、文化的・資産的継承がスムーズに行われ、
死者の霊を敬うことで、生者どうしの道徳的精神が養われ、
つまりは和合が起き、
1つの社会がスムーズに形成できるようになったと思われる。
 
「死者の霊」という一種の虚構を用いることで、成り立つようになった人間の
小社会。
 
古代を過ぎてからも、「虚構的人格」を中心にして、人間が社会を形成し続けていることには、変わりがない。
 
古代の「先祖霊」から始まって
現代においては「近代理性」「国家」「民主主義」「科学主義」「スピリチュアリズム」など、
おおむね社会的理念と呼べるものは全て、宗教社会学の立場からは
宗教的「虚構の人格」が変化し、変遷を遂げたものである。
 
現在は、また新しい時代にふさわしい社会的欲望に従って、「虚構の人格」の新しい分裂が、アチコチで起きているものと思われる。
 
 
 
---「虚構の人格」は、人間の社会が成り立つためには
常に必要不可欠のものである。
 
人間社会は、生死を超えた人格的存在を中心にすえることによって、
その統合を保つのである。
 
そしてこの「虚構の人格」は、時代の変遷においてその形を変え、それとともに
さまざまな社会形態を創出してゆく。--(大田俊寛さんより、引用。)
 
 
(1)「宗教の原始的形態」(大田俊寛さんより、抜粋にて、引用。)
 
学問上でなお、多様な議論が存在していることは確かだが、
多くの学説においては、宗教の原始的な形態は「祖先崇拝」にかかわるもので
あったと考えられている。
 
家族は、「祖先の魂」を中心に据えることによって、その結束を保っていた。
 
(さらに)土地や建物、田畑など、家族が所有するさまざまな財産を究極的に保持
しているのは、「祖先の魂」であると考えられたのである。
 
 このような所有形態には、いくつかのメリットがある。まずその一つは、
所有の正当性を示すことができる、という点である。
 
 例えば、この土地はどういう理由であなたたちが占有する権利があると見なされるのか、と問われたとしよう。その際に、この土地はわれわれの先祖が切り開き、その子孫の一族が代々継承してきたものである、そしてわれわれは、祖先の魂を
弔う儀礼を今も継続しているため、この土地を所有する権利があるのだ、と
説明するのである。
 
国家のような超越的な権力が存在しない社会においては、各家族や部族が
このような説明を行い、相互にそれを承認することによって、所有の正当化が
図られていたと考えられる。
 
 二つ目には、所有のあり方が安定する、ということが挙げられる。
生身の個人が何かを所有するということは、実はきわめて不安定な状態である。
というのは、その個人が突然死んでしまった場合、その所有物がその後に誰の
ものになるのかが分からなくなるからである。
 
それに対して、財産の所有者を「祖先の魂」であるとし、個々の人間はそれを
中心とした共同体の成員であるとしておけば、所有は安定する。
 
魂という「虚構の人格」は生死を超えた永続的な存在であり、
突然死んだり消えたりすることがないからである。
 
 こうして原始的な社会においては、祖先の魂を中心にして、家族的共同体が
営まれていた(祖先崇拝の段階)。
 
 
 しかし人間が形成する社会や共同体のあり方は時代とともに推移し、
より大規模なものとなる。そしてそれとともに、人間相互の「つながり」のあり方も、
より複雑なものに変化する。
そうした場合、死者の葬儀や供養は個々の家族ごとに継続されるにしても、
共同体全体の「つながり」を証し立てるためには、祖先から子孫へ継承される
「魂」の系譜という単線的なものでは十分ではなく、より高度で精妙な
「虚構の人格」の存在が要請されるということになったのだろう。
 
その人格は「魂」よりも抽象度が高く、むしろ個々の霊魂同士のつながりや、
死後のあり方を定めるものであったと考えられる。
そしてその存在は、一般に「神」と呼ばれる。
 
 神は当初、民族的共同体や都市国家など、それぞれの土地に根差した地域的
社会を統合するためのシンボルとして機能していた。
 
また、神をあらわす表象も、各地域にゆかりのある自然物から取られることが
多かった。そして、その神の由来や性格を物語る神話や、神々の関係性を描く
神統記などが生み出されていったのである。(多神教の段階。)
 
 しかし、多くの地域を征服しつつ拡大するような帝国的国家が成立すると、
宗教の形態もさらに変化した。それまでの多神教的な信仰が廃され、世界全体を
統治する唯一の神という存在が考案されたのである。(一神教の段階。
 
 一神教においては、血縁関係に基づく家族宗教や、地縁関係に基づく民族宗教とは異なり、一定の儀礼的手続きを踏みさえすれば、原則的に誰もがその共同体に
参与しうるとされ、あらゆる人間、あらゆる民族にとって平等な原理が提示された。
 
そして、そのような神の存在について物語るために、高度な神学的体系が整備され、多くの人間を適切に組織化しうるような法律の体系もまた、付随的に発達していったのである。
 
***(以上、大田俊寛さんから、引用。)
 
 
 宗教とは何か、という問いに近代理性で答えると、
 
「虚構の人格を中心として社会を組織すること」、そしてそれによって
「生死を超えた人間同士つながりを確保すること」である、と言うことができる。
 
「虚構の人格」は、自然的には存在しないものでかまわない。
 
社会的な必要性のために虚構の人格は改変されるので、
人工であればあるほど、融通無碍(ゆうづうむげ)に形を変えることができる。
 
実際には、虚構の人格は、想定されたオリジンがもつ精神をある程度は反映する。
 
例えば、想定された先祖霊は、先祖の誰かのキャラクターに似ていると思われるし
 
キリスト教の場合は、歴史上存在していたとされる
イエスのキャラクターや、公的聖書の大部分を書いたパウロのキャラクターが
反映されており、
 
イスラム教の場合は、マホメッドが神託されたと主張したものが経典として
虚構の人格となるのであり、
 
仏教徒が考える「ほとけさま」は、想像されたブッダのキャラクターに似ているであろう。
 
社会学的には、宗教とは、社会と個人の社会的必要性によって
生み出されるとともに改変されるものなのである。
 
----人間は、これまで、さまざまな神話や儀礼を案出することにより、
さまざまな「虚構の人格」を創設し、その存在に基づくさまざまな
タイプの社会を創り上げてきたのである。(大田俊寛)。
 
 
人間が創りだしたい社会の数だけ、
「虚構の人格」は存在する。
 
「虚構の人格」は、人類の歴史的に存在した社会的欲望の数だけ存在すると言っていいと思う。
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